『勘注系図』の研究

1 『勘注系図』とはどんな系図か2 神代から五世孫3 卑弥呼の時代4 開化や台与の時代
5 崇神の時代6 尾張氏に続く系譜7 丹波国造となる時代8 五世紀代から九世紀
9 系譜を作成した人たち10 系譜は史実か11 系譜の続き具合12 系図概要
13 注記抜書き14 研究者、文献、その他15 私の卑弥呼論16 おわりに

1 『勘注系図』とはどんな系図か
  
  1 はじめに
  1-1 海部氏の二つの系図
  1-2 同じ伝承を持つ尾張氏系譜
  1-3 海部氏と尾張氏の関係
  1-4 系図成立の経緯
  1-5 『勘注系図』の問題点
  1-6 『記紀』伝承と深く関わる
  1-7 『記紀』に登場する女性
  1-8 架空の系譜として創作不可能

 『勘注系図』の問題点

 勘注系図は「一云」「亦云」「古記云」「秘記云」などとして、多くの異伝や別伝を併記する。複数の伝承をつなぎ合わせて作成されたらしく、『勘注系図』作成の時点で、どの伝承が正しいのか、どのようにつながるのか判別の付かない部分があったようである。
そのために明らかな間違いも数多く見受けられる。

 たとえば六世孫とする建田勢命を五世孫笠津彦の子とする。しかし建田勢命は丹波の支配者として丹波にやってきた人物で、丹波の当主ではあるが、笠津彦の子ではない。

 最大の誤りは、一四世孫、川上眞稚命を、十三世孫とする尾張に移った後の、尾張氏の系譜に接続している事である。
『勘注系図』は現在の愛知県に移り住んだ、十一世孫乎止與命、十二世孫建稲種命、十三世孫志理都彦命までを丹波の系図に混在させる。そのため丹波の系譜の続き具合と世代数に誤りが生じる。

 また十七世孫建振熊宿禰は、和珥氏(わにし)の人物である。
和珥氏は尾張氏の世襲足媛(よそたらしひめ)と、五代孝昭の間に生まれた、天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)を祖とする。したがって和珥氏と尾張氏は近い関係にあるが、建振熊宿禰は尾張氏や海部氏の人物ではない。
ところが『勘注系図』は建振熊宿禰を十七世孫丹波国造とする。
このことを理由に『勘注系図』を偽系図という人がある。しかし建振熊宿禰を丹波の国造とすることは誤りではない。その理由である。

『勘注系図』は次のように記す。
「息長足姫(おきながたらしひめ・神功皇后)、新羅(しらぎ)国征伐の時、丹波、但馬、若狭の海人三百人を率い水主(みずぬし)と為(な)って以って奉仕(つかえたてまつ)るなり。凱旋(がいせん)の后(のち)勳功(くんこう)により、若狭木津高向宮(わかさきずたかむくのみや・福井県大飯郡高浜 町)で海部直姓を賜り定める。而(しこう)して楯鉾(たてほこ)等を賜る。品田天皇(ほむたてんのう・応神)の御宇に国造として仕奉(つかえたてまつる) 故に、海部直、亦云丹波直、亦云但馬直。」
建振熊宿禰は丹波、但馬、若狭にまたがる地域の支配者なのである。
だが成務朝に丹波国造となったのは大倉岐である。また同時期、但馬国造は船穂足尼である。従って建振熊宿禰は、丹波、若狭、但馬にまたがる広域を支配する、上位の国造なのである。
したがって建振熊宿禰は和邇氏の人物であるが、丹波、但馬、若狭、を支配した人物として、『勘注系図』という丹波の系譜の中に登場するのである。
実はこの注記には注意が必要である。この注記は武振熊宿禰という人物の横に記される注記である。ところうが別の個所で極めてよく似た文章が記される。
それは神功の新羅侵攻に丹波、但馬、若狭の海人三百人を引き連れて参戦したのは父親の武振熊命で応神朝に若狭、丹波、但馬の国造として奉仕したのは子の武振熊宿禰なのである。前者を「命」後者を「宿禰」と明確に書き分け、後者の前に「男(こ)」を付ける「男」とは息子の意味である。
 『勘注系図』の前半部は、丹波の支配者の系譜である。そのため建振熊宿禰のように、丹波支配に当たった人物が唐突に登場する。一見偽系図かと思わせる部分がある。
また丹波支配に当たった尾張氏の系譜を混在させる。そのために続き具合と世代数に混乱がある。