『勘注系図』の研究

1 『勘注系図』とはどんな系図か2 神代から五世孫3 卑弥呼の時代4 開化や台与の時代
5 崇神の時代6 尾張氏に続く系譜7 丹波国造となる時代8 五世紀から九世紀
9 系譜を作成した人たち10 系譜は史実か11 系譜の続き具合12 系図概要
13 注記抜書き14 研究者、文献、その他15 私の卑弥呼論16 おわりに

 おわりに

『勘注系図』の歴史史料としての価値

 『勘注系図』の歴史史料としての価値

 『勘注系図』の面白さは『本系図』が意図的に隠した時代にある。それは神代から十八世孫とする建振熊命の前までである。建振熊命以降は丹波の国造家、あるいは籠(こ)神社の神官家としての、丹波という地方の豪族の系譜にすぎない。極めてマイナーな系譜である。
だが建振熊命の少し前まで、すなわち4世紀の初め頃まで、『勘注系図』は丹波の支配者であった尾張氏の系譜を伝える。当時の尾張氏は大和朝廷と密接にかかわる。かかわるというより大和朝廷そのもので在ったと思わせる節がある。そこに列島規模の歴史を読み解く鍵がある。それがまた『勘注系図』を他見許さずとして極秘にしてきた理由でもあろう。

 特に面白いのは六世孫建田勢命、七世孫建諸隅命、八世孫日本得魂命が登場するあたりで、おおよそ三世紀代である。何れも尾張氏の人物で、建田勢命は七代孝霊天皇に、建諸隅命は九代開化天皇に、日本得魂命は十代崇神天皇に奉仕(つかえたてまつる)とする。
しかもこの三人については、注記で個人の事跡などにも触れる。この注記から大和朝廷の歴史の一端が垣間見えてくるのである。

 三世紀代と言えば『魏志倭人伝』などの中国史書に登場する、邪馬台国や卑弥呼の時代である。ところうが今まで、『日本書紀』や『古事記』と、この中国史書との接点が不明であった。
『勘注系図』の三世紀代の登場人物や注記の中に、この不明部分を解き明かす鍵がある。『魏志倭人伝』と『日本書紀』や『古事記』とを結びつけるミッシングリングが隠されているのである。
それは『日本書紀』や『古事記』が語る、男子天皇でつながる皇統譜とは少し異なり、むしろ『魏志倭人伝』が伝える、卑弥呼と台与という女王の存在を明らかにする。 その点だけでも古代史研究の一級の史料と成りうる。
だが『勘注系図』を国宝に認定した研究者ですら、『勘注系図』を『本系図』からの派生などと、この系図の本当の価値を認識できていない。
このような特筆すべき『勘注系図』の歴史史料としての価値を知って頂くために、私のホームページが役に立てば幸いである。

 私は建振熊命という人物を追って、『勘注系図』に出合った。そして『勘注系図』の中に卑弥呼を見た。そして東大寺山古墳から出土した中平銘鉄刀を卑弥呼が受け取った刀とする。
建振熊命は和邇氏の人物で、363年神功の新羅出兵と、その後の神功、応神朝成立に活躍した人物である。東大寺山古墳の築造は四世紀末頃である。これを期に、この和邇氏の地に140m規模の前方後円墳が造られる。したがって東大寺山古墳の被葬者は建振熊命と考えている。
私は建振熊命を追って、卑弥呼に遭遇した。中平銘鉄刀を介して、再び建振熊命と遭遇することになった。建振熊命は天足彦国押人命を祖とする和邇氏の子孫である。そして天足彦国押人命の妻が宇那比姫で、他ならぬ卑弥呼である。したがって建振熊命は卑弥呼の子孫でもある。
250年に及ぶ時空をさまよい、時空の糸がつながった瞬間である。

敬白
2011年10月
曲学の徒:桂川光和