『勘注系図』の研究

1 『勘注系図』とはどんな系図か2 神代から五世孫3 卑弥呼の時代4 開化や台与の時代
5 崇神の時代6 尾張氏に続く系譜7 丹波国造となる時代8 五世紀代から九世紀
9 系譜を作成した人たち10 系譜は史実か11 系譜の続き具合12 系図概要
13 注記抜書き14 研究者、文献、その他15 私の卑弥呼論16 おわりに

3 卑弥呼の時代
(二世紀末から三世紀前半)

3-1 丹波の支配者、六世孫建田勢命
3-2 六世孫宇那比姫が卑弥呼
3-3 宇那比姫は尾張氏の人
3-4 卑弥呼の母親は紀伊氏
3-5 尾張氏の本拠地、葛城高尾張
3-6 史書に登場する尾張氏

 丹波の支配者、六世孫建田勢命

 彦火明命六世孫に建田勢命(たけだせのみこと)という人物が登場する。『先代旧事本紀』尾張氏系譜では建田背命と表記される。
『勘注系図』では建田勢命は笠津彦命の子とするが、注記には建登米(たけとめ)之子という記述がある。
建登米の子であれば『先代旧事本紀』尾張氏系譜と同じである。
建田勢命は笠津彦命の後に続く、丹波の支配者であるが、笠津彦命の子ではなく、建斗米命(建登米)の子である。

 『勘注系図』はその注記で次のように記す。
「大日本根子彦太瓊【孝霊】天皇御宇、於丹波國丹波郷、爲宰以奉仕、然后移坐于山背國久世郡水主村、故亦云山背直等祖也、后更復移坐于大和國」

 建田勢命は最初丹波の宰(みこともち)となる。その後山城久世水主村(やましろくぜみずしむら)に移り、さらにその後大和に戻ったとする。建田勢命が大和王権の命を受けて丹波支配を行ったのである。
建田勢命が丹波支配の府を置いたとされる場所は、京丹後市久美浜町海士である。そこには建田勢命の館跡とされる伝承地がある。またその近くの矢田神社は建田勢命とその子供建諸隅を祀る。
その後山城久世に移り住む。久世とは、現在の京都府城陽市久世である。ここに水主神社という古い神社がある。祭神を彦火明命として、以下尾張氏の人物が祀られる。このあたりが建田勢命が移り住んだ場所であろうか。
そしてまた大和に戻ったのである。

 『先代旧事本紀』尾張氏系譜によれば、五世孫建斗米には七人の子がある。
建田背(たけだせ)命、建宇那比(たけうなび)命、建多乎利(たけたおり)命、建彌阿久良(たけみあくら)命、建麻利尼(たけまりね)命、建手和邇(たけたわに)命、宇那比姫(うなびひめ)命である。
『勘注系図』にはこの内、建田勢命(建田背命)、建田小利命(建多乎利命)、宇那比姫命の三人のみを記す。しかも宇那比姫については建田勢命と同一世代に記すが、建田勢命と、どのような関係にあるかは不明である。
だが『先代旧事本紀』を見れば、建田背命を長男とする七人兄妹の、一番下の妹であることが解る。