『勘注系図』の研究

1 『勘注系図』とはどんな系図か2 神代から五世孫3 卑弥呼の時代4 開化や台与の時代
5 崇神の時代6 尾張氏に続く系譜7 丹波国造となる時代8 五世紀から九世紀
9 系譜を作成した人たち10 系譜は史実か11 系譜の続き具合12 系図概要
13 注記抜書き14 研究者、文献、その他15 私の卑弥呼論16 おわりに

7 丹波国造となる時代
(四世紀中頃)

7-1 丹波大矢田彦命
7-2 丹波國造となる大倉岐命
7-3 建振熊宿禰という和邇氏の人物
7-4 建振熊は神功朝成立の功労者
7-5 神功皇后の新羅出兵は史実
7-6 新羅鎮守将軍、大矢田宿禰

 建振熊は神功朝成立の功労者

 『勘注系図』の十八世建振熊宿禰の注記に次のように記す。

  『息長足姫(おきながたらしひめ・神功皇后)、新羅(しらぎ)国征伐の時、丹波、但馬、若狭の海人三百人を率い水主(みずぬし)と為(な)って以って奉仕(つかえたてまつ)るなり。凱施(凱旋・がいせん)の后(のち)勳功により、若狭木津に高向宮(たかむくのみや)を定め海部直(あまべあたい)の姓を賜う、而(しこう)して楯鉾(たてほこ)等を賜う。
品田天皇(ほむたてんのう・応神)の御宇(みよ)国造(くにのみやつこ)として仕え奉る故に海部直亦(また)云う丹波直、亦云う但馬直(たじまのあたい)なり。』
神功の新羅出兵に関連する極めて具体的な内容である。

この注記が記される人物の名は建振熊宿禰である。建振熊が丹波、但馬、若狭の海人三百人を率いて渡海した新羅侵攻の翌年、大和に帰還しようとする神功側(太子側)と、これを阻もうとする仲哀の遺児、忍熊(おしくま)王が戦う。この戦いで建振熊が活躍する。忍熊王を琵琶湖のほとりで滅ぼし神功の時代が始まる。
建振熊は神功、応神朝成立の最大の功労者の一人である。

『勘注系図』の建振熊宿禰の注記を読む限り、新羅侵攻に海人三百人を引き連れて出陣した人物は武振熊宿禰で、その功績により若狭木津に高向宮(たかむくのみや)を定め海部直(あまべあたい)の姓を賜ったと読める。
ところうが事実は少し違うのである。神功の新羅侵攻に海人三百人を引き連れて参戦するのは、父親の建振熊命で若狭木津高向宮で海部の姓を賜るのは、その息子建振熊宿禰なのである。
『勘注系図』の別の個所に、上記の注記と極めてよく似た注記を記す。そこでは武振熊命と建振熊宿禰とを明確に書き分ける。また武振熊宿禰の前に「男(こ)」を付ける。「男」とは息子の意味である。したがって神功朝成立の前年、海人三百人を率いて新羅侵攻に出陣したのは、父親の建振熊命。応神朝に海部の姓を賜ったのは息子の建振熊宿禰なのである。ただしこの建振熊宿禰も父親武振熊命と共に新羅の戦に従っている。
建振熊宿禰は応神朝になって丹波、但馬、若狭にまたがる地域の国造となったのである。その支配の拠点は、若狭木津高向宮(わかさきずたかむくのみや)とされる。現在の福井県大飯郡高浜町であろう。
そしてこの建振熊宿禰の時代から丹波の一族は海部(あまべ)と称するようになる。
しかし建振熊宿禰が国造になる前、すでに成務の時代、丹波には大倉岐、但馬には船穂足尼(ふなほのすくね)などの国造が任命されている。
したがって建振熊宿禰はこれらの、国造を支配下に置いた、丹波、但馬、若狭にまたがる、より上位の支配者なのである。それゆえに丹波直であり、但馬直なのである。

和邇氏系図には武振熊宿禰という名を見ない。だが父武振熊命に従って新羅に出陣し、彼の地にとどまった大矢田宿禰という人物がある。この大矢田の宿禰が建振熊宿禰である。
『勘注系図』では由碁理の子とする川上眞稚命の子、大矢田彦命の横に一云、難波根子武振熊宿禰とするが、『勘注系図』には大矢田彦命と大矢田宿禰との混同がある。
何れにせよ建振熊命も建振熊宿禰も和邇氏の人物である。武振熊命の本拠地は大和和爾すなわち現在の奈良県天理市和爾である。一方建振熊宿禰は父親建振熊命と共に、新羅に出兵し鎮守将軍として新羅に留まる。後に帰国し応神朝に若狭木津高向宮で海部直(あまべあたい)の姓を賜るのは、息子の建振熊宿禰である。また仁徳の時代、飛騨の両面宿灘を討ったのも、息子の建振熊宿禰である。