『勘注系図』の研究

1 『勘注系図』とはどんな系図か2 神代から五世孫3 卑弥呼の時代4 開化や台与の時代
5 崇神の時代6 尾張氏に続く系譜7 丹波国造となる時代8 五世紀から九世紀
9 系譜を作成した人たち10 系譜は史実か11 系譜の続き具合12 系図概要
13 注記抜書き14 研究者、文献、その他15 私の卑弥呼論16 おわりに

8 五世紀から九世紀
(五世紀以降)

8-1 億計(おけ)と弘計(をけ)をかくまった、阿知と稲種
8-2 神官職として奉仕した年次
8-3 海部が国造で在った時代

 億計(おけ)と弘計(をけ)をかくまった、阿知と稲種

 『勘注系図』の四世紀から五世紀代の実年代を知る手がかりがある。
十八世孫とされる建振熊命が活躍した年代は4世紀中頃から後半である。この建振熊命の子、建振熊宿禰が海部直の姓を賜ったのが応神の時代とする。おおよそ4世紀末頃である。
そして武振熊宿禰の時代から4代下る。海部直阿知(あまべあたいあち)の時代の事として次のように記す。

 『穴穂天皇(安康)の御宇(みよ)、市邊(いちのべ)王子等、億計(おけ)王と弘計(をけ)王當国に来る之時、この命等、潜(ひそ)む宮を造り、以って奉仕、しかる后(のち)与佐郡眞鈴宮(よさのこうりますずのみや)に移し奉るなり。』
この記述『この命等、潜(ひそ)む宮を造り』が興味深い。

『記紀』によると、雄略は即位する前ライバルを次々に抹殺する。
履中(りちゅう)の皇子、市辺押歯王(いちのべおしはのきみ)を近江の狩場に誘い、だまし討ちにして、切り殺し馬の飼い葉桶に入れ埋めてしまう。危険を感じた、市辺押歯王の児、億計(おけ)、弘計(をけ)の兄弟は大和を逃げ出し、丹波国余社郡(たんばのくによさのこり)を経て、播磨国の志自牟(しじむ)の家に身を寄せる。
その後播磨の国の宰(みこともち)山部連小楯(やまべのむらじおだて)が志自牟(しじむ)の家の新築祝いに招かれ、かまどの傍らで火焚きをしていた二人の少年が、市辺押歯王の皇子である事を知る。この二人が顕宗、仁賢として皇位を継ぐことになる。

宋書倭国伝が伝える大明六年(462)に朝貢した興とは二十代安康であろう。そして埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた銘文の、辛亥年を471年として、獲加多支鹵大王を雄略とすれば、海部直阿知が億計(おけ)王と弘計(をけ)王をかくまったのは、460年代である。海部直阿知とは五世紀中頃の人である。

また与佐郡眞鈴宮とは『丹後風土記残欠』には、大内郷。大内と号くる所以は、往昔、穴穂天皇の御宇、市辺王子等億計王と弘計王此国に来ます。丹波国造稲種命等安宮を潜かに作り、以て奉仕した。故に其旧地を崇め以て大内と号つくる也。然る後に亦、与佐郡真鈴宮に移し奉る。

与佐郡真鈴宮がどこか今ひとつはっきりしないが、億計王と弘計王が最初にかくまわれたのが京都府宮津市須津あたりで真鈴宮とは須津姫神社とする説も在る。
そして『丹後風土記残欠』が丹波国造稲種命とする人物は、『勘注系図』では阿知の弟とされる人物である。