古代豪族系譜が解き明かす、驚きの日本古代史。皆さんを謎解きの面白さにご案内します。

第1章 『魏志倭人伝』に登場する人々

丹後の豪族、海部が府を置いた伝承地がある。
七代開化天皇の妃、竹野媛の父、丹波の大縣主由碁理の府は、京丹後市丹後町に府を置いたとされる。

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(8) 海部が府を置いた伝承地

 
 三世紀代に海部が府を置いたとされる伝承地がある。府という呼び方は後世の呼び方であり、古い時代何と称していたかは定かではないが、支配者(豪族の長、あるいは王)が居た場所と理解する。

 『勘注系図』の注記によると、最初尾張氏の彦火明命、六世孫建田勢命が、丹波の宰(みこともち)となって丹波支配に当る。建田勢命が大 和王権の命を受けて、丹波支配を行ったのである。
建田勢命が府を置いたとされるのが、京丹後市久美浜町海士である。
次の世代笛連王は京丹後市峰山町五箇、そして笛連王と同世代と思われる建諸隅すなわち、丹波の大縣主由碁理が府を置くのは、京丹後市丹後町である。

『勘注系図』の注記は建諸隅命について次のように伝える。

開化の時代に、丹波国の丹波郡(たんばのこおり)と余社郡(よさのこおり)を割いて、竹野姫の屯倉(みやけ)を置い たとする。そして建諸隅命は開化に仕えたとする。それゆえに、またの名を竹野別(たかのわけ)といい、後に竹野が郡(こおり)の名前になったとするのである。

和名抄に記載される竹野郡(たかのこおり)は、現在の京都府京丹後市網野町、弥栄町、丹後町あたりで、その中心は丹後町とされる。建諸隅命すなわち、由碁理はここに国府を置いたと言う伝承を持つのである。

この丹後町には、弥生前期から中世まで長期に渡って続く、丹後地方では最大規模の竹野遺跡(たかのいせき)がある。
遺跡は竹野川右岸の砂丘上に営なまれ、古墳時代には潟湖に面していたと推測され、良い港を持つ、海とつながりの深い遺跡である。
由碁理が府を置いた、その具体的な場所として竹野遺跡あたりを想定する。


 更に次のような伝承地がある。江戸時代に編纂された『丹哥府志』(たんごふし)に、次のような興味深い記述がある。

『神服連海部直(人皇七代孝霊天皇の御宇に熊野郡川上の庄に国府を造る)の子笛連王、母を節媛(ふしひめ)といふ、人皇八代孝元天皇に仕へ奉り、丹波与謝郡比治の里、笛原に国府を造る、比治は今丹波郡比治山の麓、五箇の庄なり。
笛の浦(一に府江原と記す)笛連の府跡なりとて山中に海部の名あり、海部は其父直の姓なり。』

久美浜町海士(あま)を含む、川上谷川一帯が熊野郡川上(くまのこおりかわかみ)の庄である。神服連海部直(かむはとりむらじあまべあたえ) が、この川上の庄に国府を造っていたとする。
近くに矢田神社という式内社がある。祭神は建田勢命、相殿にその子、和田津見命 と建諸隅命を祭る。
矢田神社について熊野郡誌は次のように記す。
『式内社にして其の創立最も古し、按ずるに海士の地は往古神服連海部直の居地にして、館跡を六宮廻(ろくのま わり)という。海部直は丹後の国造但馬国造等の祖にして、扶桑略記にも丹波国熊野郡川上庄海部里国府と為す。』

建田勢命が府を置いたという伝承地は、久美浜町海士六宮廻と呼ばれる場所である。
このあたり、川上谷川の河口で、弥生時代にあっては久美浜湾がこのあたりまで及んでいたとされる。ここもまた天然の良い港であったと思われる。

そして次の世代の、笛連王(ふえのむらじのきみ)が、丹波与謝郡比治(たんばよさ のこおりひじ)の里、笛原に国府を造るのである。その場所を比治山の麓、五箇の庄とする。
比治山は磯砂山(いさごやま)で、現在の京丹後市峰山町五箇である。
笛原の具体的な場所は不明であるが、近くに笛原寺というその地名に由来する寺もある。

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