第一章 神武東征の物語

(1) 『日本書紀』に描かれた神武東征の物語

 『日本書紀』と『古事記』は最初の天皇を神日本磐余彦(かんやまといわれひこ)すなわち神武とする。
『日本書紀』は、神武が橿原の宮で即位した年を辛酉(かのととり)紀元前660年のこととする。紀元前660年といえば縄文晩期(最近の炭素年代測定では弥生時代)とされる時代で、とても詳細な年次や、事件の内容が伝わるとは考えられない。
しかし記紀が語る神武東征物語は、まったくの架空の物語であろうか。

結論を急ぐ前に、各地に残る伝承や、記紀の記述をもとに、私が構成した東征の物語を見ていただきたい。
 図は『日本書紀』が伝える東征の経路である。
物語の大筋は『古事記』と似るが、細部は若干異なる。
たとえば『日本書紀』は椎根津彦(しいねつひこ)に会つた場所を、筑紫(九州)の宇佐に到着する前のこととする。だとすると速吸の門(はやすいのと)は豊予海峡の速吸の瀬戸と考えられる。
これに対し『古事記』は槁根津日子(さおねつひこ)(どちらもウズヒコとする同一人物)に会ったのは吉備を出発してからとする。だとすれば速吸の門を、明石海峡あたりとする説も生まれる。
また仮の宮を置いたとする安芸(広島)の宮を、『日本書紀』は埃の宮(えのみや)とし、『古事記』はタケリの宮とする。
ここでは記述がより詳細で、具体的な『日本書紀』の記述を中心に構成する。

『日本書紀』は出発地について明確にしないが、出発してから最初に、筑紫の宇佐に寄ったとする。
出発地は『古事記』の日向を発ったとする伝承と合わせて考えれば、宮崎県あたりとなろう。

宮崎県日向市の南に、耳川という川がある。この河口に美々津と呼ばれる小さな港がある。
この美々津は神武東征の出発地伝承を持つ。
伝承によると、出発が急遽早まったため、早朝里人を起こして回ったとするのである。その伝承を「起きよ祭り」として今に伝える。
また出発にあたり、餅の餡(あん)を包んでいる時間が無かった。そのため小豆と餅を一緒につき込んで渡した。この餅を「つき入れ餅」といい、この伝えを今に残す。

日向を出発した神武は、筑紫の菟狭(大分県宇佐市)に寄り、その後筑紫の岡の水門(みなと)にしばらく留まったとする。その場所は、遠賀川河口ということで福岡県遠賀郡芦屋町あたりとする説と、北九州市八幡西区黒崎にある岡田神社とする説がある。私は後者だと考えている。しかし何れにしても不思議な記述である。
東の奈良盆地を目指すなら、九州北岸の地に寄らずに、直接豊後水道から瀬戸内海に入れば、よさそうなものである。この疑問に対する私の見解は別の機会に述べる。

その後安芸(広島県)の埃の宮に留まった。更に吉備(岡山県)の高島の宮に移る。仮の宮をつくり、ここで兵船を整え、食糧を蓄え、東への侵攻の準備をしたとするのである。

ただし東征の始まりの時点では、総大将と言うべき人物は神武ではない。長兄の五瀬命(いつせのみこと)である。しかし、五瀬は戦いで、他の二人の兄も水難に会い命を落とす。最後に残った神武が東征を果たし、大和王権を樹立したとされる。

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