第一章 神武東征の物語

(4) 伊勢の海での難破

 名草戸畔(なくさとべ)を滅ぼした神武軍は、熊野の神邑(みわむら)に着き天の岩楯(新宮市、神倉神社ゴトビキ岩)に登った。

更に東に進むのであるが、熊野の荒坂の津、またの名を丹敷(にしき)の浦あたりで暴風に遭遇し船団は難破する。このとき稲飯(いない)、三毛入野(みけいりの)の兄弟は、溺れ死んでしまうのである。
この荒坂の津というのは、現在の熊野市二木島である。


 二木島には神武東征にまつわる伝承を色濃く伝える。
暴風に会った神武たちの舟は、楯ヶ崎に上陸したとする。楯ヶ崎というのは、熊野市甫母町(ほぼちょう)にある高さ約80m、周囲約550mに及ぶ、柱状節理の大岩である。このあたりから東に、柱状節理の断崖が続く。普通なら上陸するような場所ではない。
上陸というより難破して漂着したのである。




このとき二木島の里人は、難破した神武たちを必死で助けた。その事を伝える関船競漕という神事を今に伝える。
二木島湾の湾口に向かい合う、室古神社と阿古師神社の間で、それぞれの神社の氏子約四十人が関船に乗り込み、船漕ぎ競争をするのだそうである。この室古神社というのは、ここに漂着した稲飯命を祀った神社とされ、三毛入野命の遺骸は見つからなかったが、阿古師神社に祀ったとされる。


写真左阿古師神社。



『日本書紀』は荒坂の港に到着し、丹敷戸畔(にしきとべ)という者を殺したとする。この後『古事記』や『日本書紀』は面白い話しを記す。

『古事記』は神武軍は、熊野村の大熊の毒気にあたって気を失ったとするのである。『日本書紀』は神が毒気を吐いて(神武軍は)病みふしたとする。その後熊野の高倉下(たかくらじ)という者が、フツノミタマという剣をたてまつり、神武軍は目覚めたとする。
楯ヶ崎での難破が事実なら、舟をはじめ武器や食料の多くを失った神武軍は、とても、まともに戦える状態ではなかったであろう。高倉下(たかくらじ)から武器を得て、ようやく丹敷戸畔と戦うことができたのかもしれない。

この二木島の西の峠は「逢神坂(おおかみざか)」東の峠を「曽根次郎、太郎坂」と呼ぶ。前者は熊野の神と伊勢の神が出会う場所という意味で、後者は自領、他領が転化したものとされる。
いずれもこのあたりを境にして西を熊野、東を伊勢とする。ここから東(三重県尾鷲市あたり)は中世、錦の庄と呼ばれる地域である。丹敷とは錦であろう。
神武軍が難破したのは他ならぬ、伊勢の海である。ここが伊勢の海であることは、後ほど紹介する久米歌の中で、重要な意味を持つ。

多くの舟を失っては、もはや海路東に進むことは不可能である。やむなく山深い熊野山中を突破することになる。
熊野は奈良盆地へ侵攻するための上陸地点として、決して戦術的に優れた場所ではない。難破という不測の事態に遭い、困難な侵攻経路を採らざるを得なかったのであろう。
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