第一章 神武東征の物語

(7の2) 伊那佐山の戦い

 戦いの順序としては、前後するかもしれないが、具体的な戦いの様子を伝える次の歌がある。
宇陀郡榛原町の南寄りに、伊那佐山(637m)という独立した山がある。(地図上に赤字で示す)

この伊那佐山での戦いを歌ったものである。『楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦えば われはや餓(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね。』

伊那佐山は墨坂や国見丘に展開する、八十梟帥(やそたける)と向かい合う最前線である。歌の意味はおおよそ次のようなものであろう。

伊那佐山の木の間を行き来しながら、楯を並べ防戦しているが食べ物が無く飢えてしまった。鵜養(うかい)がとも(伴・供)よ早く助けに来い、という意味である。荒坂の港で難破し、舟をはじめ食料や武器の多くを失い、食料は乏しかったであろう。苦戦する兵が、食料の到着を待つ差し迫った歌である。現実感のある歌だと思う。

興味深いのは「島つ鳥」である。従来鵜飼にかかる枕詞とする解釈は多い。しかし前に述べたように、この時代では枕詞というような、慣用的表現は確立していないであろう。
神武は奈良盆地侵攻の前に、吉野や阿田(五条市阿田)など奈良県南東部を訪れている。吉野の阿田あたりでは鵜を使った漁法が早くから行われていたとされる。
『日本書紀』は鵜飼部(うかいべ)の祖先がこの阿田地方の出とする。
したがつて「鵜飼いのともよ」という語句が、この五條市阿田の住民を指した語句であることは容易に察しがつく。
この阿田には小島、上島野、下島野という地名がある。島という地域である。まさにこの「島つ鳥」というのは鳥の鵜と、島という土地の名に掛かる掛け言葉である。

このように久米歌の特徴は、どの歌も特定の場所や人物を、掛け言葉としてたくみに読み込んでいることである。
これを紀は「諷え歌」(なぞらえうた)と記す。

下の写真は宇陀郡榛原町の北側鳥見山(とみやま)から伊那佐山を望む。
神武たちはこの伊那佐山に、磯城津彦たちは、右側の国見丘(奈良盆地を取り囲む青垣山の一つ音羽三山)や宇陀地方と奈良盆地の間にある墨坂峠に防衛線を敷いている。


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