第一章 神武東征の物語

(7の1) 国見丘の戦い

 次は久米歌として挿入される、国見丘争奪の戦いである。

「神風(かむかぜ)の伊勢の海の 大石にや 這(は)ひもとへる 細螺(しただみ)の 細螺の 吾子(あご)よ吾子よ 細螺のい這ひもとへり うちてしやまむ」

従来の解釈では、神風を伊勢の枕詞とする。
また伊勢を伊勢神宮と考えるため、伊勢神宮が祭られるのは垂仁の時代で、神武の時代に伊勢神宮は存在しない。したがつてこの歌は後世の創作だとするのである。神武東征が創作された物語であるという説の根拠にもなっている。
だが神風は枕詞ではない。この時代に枕詞というような慣用的表現は、まだ生まれていないと見るのが妥当であろう。

神風とは、神武一行が荒坂の沖で遭遇した暴風である。この暴風で難破した場所は、熊野から伊勢に入った直後、他ならぬ伊勢の海である。
重要なのはつぎの「大石」である。
『日本書紀』は、この歌の説明として「歌の心は、大石を国見丘に喩(たと)えたのである」とする。
この大石は海岸ならどこにでも見かける、ありふれた岩ではない。
「楯ヶ崎(たてがさき)」である。
楯ヶ崎とは、荒坂の津とされる、熊野市二木島湾の外側にそびえる高さ約80m、周囲約550mに及ぶ、大岩である。柱状節理の岩塊は見る者を圧倒する。
暴風に会い、神武達がまさに命がけで上陸した場所であり、仲間を失った、忘れる事の出来ない場所でもある。



また従来次の細螺(しただみ)を久米の者達と解釈して、細螺のように国見丘をはいまわって敵を討とう、とする説が多い。しかし戦意を鼓舞する歌としては、細螺にたとえたのでは、いかにも迫力に欠ける。
細螺(しただみ)は「下民」で敵兵のことである。
吾子(あご)よ吾子よは、伝承される過程で、這いまわり始めた赤ん坊に、元気に這いまわれと呼びかける歌として、後から付け加わったと考える。

したがって「暴風にあった伊勢の海の大石(楯ヶ崎)に這いまわっていた細螺(小さな巻き貝)のような、国見丘に這いまわる細螺(下民)を、這いまとわり付いて討ち滅ぼしてしまおう」である。
暴風で難破し楯ヶ崎の険しい絶壁を這い上がり、からくも一命を得た久米の者達にとって、国見丘の険しさなどものの数ではないという、戦いを鼓舞する歌である。

またこの歌から神武達が難破したのは、二木島湾の外海、楯ヶ崎であったという、二木島に伝わる伝承が真実味をおびてくる。
かくして神武軍は八十梟帥(やそたける)を国見丘に撃破する。


神武上陸伝承地碑(伊勢湾台風で損壊し台座のみが残る)

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