第一章 神武東征の物語

(8) 青垣山麓での戦い

 国見丘(音羽三山)の八十梟帥(やそたける)を撃破し、斬った神武軍は、奈良盆地への侵入を開始する。
それに先立ち、椎根津彦(シイネツヒコ)は磐余(いわれ・桜井市中部から橿原市東南部)に展開する兄磯城(エシキ)の軍を偵察する。
シイネツヒコは土地感のある弟猾(オトウカシ)を伴って、それぞれ爺と婆に変装し、香具山に出向く。香具山は磐余の真ん中、まさにエシキが布陣する、敵の真っ只中である。

そしてこのシイネツヒコが立てた戦術は、まず神武軍の女軍(支隊)を、忍坂(おっさか)に向かわせる。(大宇陀町の半坂から桜井市粟原(おおばら)に抜け、忍坂(おっさか)に至る忍坂街道と呼ばれる道。一部は現在のR166と重なる)

つぎに磐余に展開する、エシキの本隊が忍坂に移動したら、神武軍は男軍(本隊)を墨坂(初瀬街道・R165)に駆けさせる。
墨坂(西峠)の防衛線を突破して、エシキ軍の後ろに回りこみ、挟み撃ちにして撃破しようとする作戦である。
作戦は成功し、その首領兄磯城(エシキ)らを斬ったとする。


次の久米歌はこの戦いと関連すると思われる。

『みつみつし 来目の子らが 垣もとに 粟(あわ)ふには 韮(かみら)一もと其根(そね)がもと 其ね芽繋ぎて うちてし止まず』(紀)

『みつみつし 来目の子らが 垣もとに 植えしはじかみ 口疼(くちひび)く 我は忘れず うちてし止まず 』(紀)

前に紹介した久米歌のいくつかは、鴫(しぎ)が磯城(しき)で鯨が兄猾(エウカシ)、島つ鳥鵜飼いがともは、吉野の阿田地方で、鵜を使って漁をする住民のことであり、細螺(しただみ)は下民であるとした。
このように掛け言葉や、比喩による暗喩を多く持っている。またどの歌にも極めて具体的な地名が読み込まれている。
たとえば「莵田の高城」「伊勢の海の大石」「伊那佐山」などである。「伊那佐山」はもちろん「高城」や「大石」が普通名詞ではなく特定の場所であることは前に述べた。また「島の鳥」の島は、阿田の島という地名と関係する。
そうするとこの二つの歌にも、暗喩と具体的な場所が読み込まれていると推察できる。

『古事記』には欠落するが『日本書紀』では、この歌のどちらにも「垣もと」という語句が入る。重要なキーワードである。
畑や家の周りの垣(垣ね)の近く、という意味であろうが、単にそれだけではない。奈良盆地を取り巻く青垣山のことである。
『日本書紀』は「昔孔舎衛(くさえ)の戦いで、イツセ命が矢にあたって亡くなった。天皇はふくむところがあり、いつも怒り恨んでいた。こんどの役になって、心中殺そうと思い」と解説する。
下のうたの「はじかみ(山椒)」が長髓彦(ナガスネヒコ)であることは容易に想像がつく。
そうするとこの垣もとは青垣山の一つ、生駒山の麓となり、孔舎衛の戦いの恨みは忘れないぞということである。

 問題は初めの歌の「あわふ」である。一般には「粟生」と言う字をあて「粟の畑」と解説する。粟の畑であることは間違いないが、これも具体的な地名を読み込んだ掛け言葉である。
先にエシキとの戦いで、神武軍の女軍が忍坂街道を攻め下り、墨坂峠を突破した男軍が、磯城軍の後方に回り込み、挟み撃ちにしたとする。その場所が「粟ふ」である。
男坂(半坂峠)を桜井市側に下った峠の下の集落は、「粟原(おうばら・おおばら)」と呼ばれる地名である。この地名を読み込んでいる。

そうするとこの韮(かみら・にら)は磯城彦のことで、この場合の「垣もと」は、青垣山の一つ音羽三山である。
韮は多年生の植物で、地下茎を持つ。根につながるもとを打ち滅ぼしてしまおうと言う事になる。根元とは、おそらく長髓彦(ナガスネヒコ)および、ニギハヤヒの一族を意味すのであろう。
その後ナガスネヒコとの戦いは続くが、ナガスネヒコが、君と奉(たてまつ)る、神武と同祖のニギハヤヒの子、ウマシマデはナガスネヒコを斬って、神武に降伏した。
かくして奈良盆地の磯城彦、長髓彦など、主だった勢力を滅ぼした神武軍は、その後も抵抗する八十梟帥を滅ぼし、奈良盆地を平定したとする。

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