第一章 神武東征の物語

(9) 久米歌が伝えた歴史のひとこま

 『日本書紀』が伝える「神武東征」物語の中でも、奈良県の東南部宇陀地方から磐余(いわれ・桜井市から橿原東南部)を舞台に語られる、戦いの模様は極めてリアルである。
時間的にさほど差のない、熊野の物語は、神武軍が神の毒気にあたり病み臥したり、タケミカツチの神が夢の中でタカクラジに剣をさずけ、ヤタノカラスが神武軍を先導するために飛び降りてくるなど、神話的、物語的である。
また、仮の宮を置いたとする、安芸の埃(えい)の宮や、吉備の高島の宮については、具体的な事を何も記さない。
これに対し、宇陀郡や桜井市あたりの物語は、特定できる具体的な地名を伴い、荒唐無稽な物語は少ない。この具体的な記述部分は、久米歌の挿入されている部分とよく対応する。

文字での記録が残される以前、歌や踊りで、自らの歴史を子孫に伝えたのである。久米歌は自然発生的に生まれた歌ではない。極めて具体的な場所や人物を、意図的に織り込んでいる。自分たちの活躍を、久米歌という歌にすることによって、残そうとしたのである。

 『日本書紀』は天皇即位の時、「大伴氏の遠祖、道臣命(みちのおみのみこと)大久米部をひきいて、密策をうけたまわり、諷歌(なぞらえうた)、倒語(さかしまご)をよくもって、妖気(わざわい)をはらへり、倒語(さかしまご)の用いたる、これより始めておこれり」とする。
久米歌は道臣、あるいはその指示で創られたのであろう。創られたのは、即位の直前。今日でも天皇即位の重要な儀式の一つとして、久米舞いが行われる。ただし「前妻(こなみ)が魚(な)乞わば・・・」という部分や「吾子よ、吾子よ・・・」とする部分は、伝承される過程で、後から付け加わった部分であろう。

鴫(磯城彦)、鯨(兄猾・えうかし)、島つ鵜飼(阿田の島という場所)、大石(楯ヶ崎と国見丘)、細螺(下民)、垣もと(青垣山)、かみら(磯城彦ら八十梟帥)、はじかみ(長髓彦)、粟ふ(粟原)などは、諷歌(なぞらえうた)である。
倒語(さかしまご)が具体的にどんな表現かは解かりかねる。

歌で伝えられた歴史のひとこまは、記紀によって、文字に採録され、今日の私たちに伝わるのである。
久米歌を伴う部分は、東征の中でも極めてリアルに伝えられる。歌を伴わない熊野の物語は、神話的に変容し、安芸や吉備については、そこに留まったという事しか残らないのである。

国見丘にたとえた伊勢の大岩、楯ヶ崎をはじめ、宇陀地方の、高城山や伊那佐山、吉野の島、あるいは桜井市の粟原、忍坂、青垣などの場所を織り込んだ、これだけ緻密な物語を、何の根拠もなく創作することは可能であろうか。架空の物語とするには、あまりにもリアリティーがある。
加えて、あの熊野の二木島湾や海南市には、記紀に記されない伝承を残し、神社まで建立しているのである。

神武東征は史実にもとづく物語である。
問題はそれが何時のことかである。以下その謎を追う。
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