第二章 『日本書紀』の実年代

(2) 神功皇后新羅侵攻の物語

 戦後の多くの歴史研究者が、神功皇后新羅出兵を史実でないと否定した。
しかしそのように断言する前に、私が伝承と『記紀』の記述や、朝鮮史書『三国史記』から構成した、神功皇后新羅侵攻の物語を見ていただきたい。

下図の赤点は、神功皇后新羅出兵にかかわる伝承を残す、主だった場所を示す。それぞれの地点を線で結び、侵攻の経路を想像したものである。
北部九州から、壱岐、対馬の多くの場所に、神功皇后の新羅出兵の伝承が残る。
もしこれらがフィクションであるとするなら、これだけ多くのフィクションを創作し、神社を建立し、千年以上語り継ぐなどということが可能だろうか?王権の権威を総動員しても、容易ではない。何らかの歴史的事実を想定せざるを得ない。
そこでその伝承を概観する。

 博多湾には、図に示した福岡市西区小戸大神宮の他、志賀島、住吉神宮、能古島、生の松原などに新羅出兵の伝承を残す。
博多湾に集結した船団は、佐賀県浜玉町、玉島川の河口にいたる。
玉島神社は記紀や肥前国風土記も伝える、神功皇后鮎釣りのエピソードの地である。その時期を四月の初めとする。
この伝承が事実なら、新羅侵攻は四月の事である。次の唐津市鏡山で、石に鏡を懸け戦勝を祈願したとする。
松浦半島の先端七ッ釜には帰還の折、酒を入れた土器を海に投げたとされる土器崎神社がある。

壱岐、対馬には数多くの伝承を残す。
石田町の筒城浜は大風に遭い舟を着け、近くの錦浜で濡れた衣を干したとする。
壱岐の北端、勝本浦では、風待ちのため長期日滞留せざるを得なかった。
対馬西海岸の峰町、海神神社は帰還の折、この場所が重要な場所であるとして、神社を安置し、対馬の鎮めとした。
対馬北端の鰐浦は、『日本書紀』が伝える和珥津である。ここに集結し大陸に侵攻した。戦の後この港に帰還し、戦勝の祝宴を催し、また捕虜を開放したとするのである。

日本書紀によると舟は追い風を受け一気に新羅に至り、潮浪が国の中までおよんだとする。川を遡上して内陸部へ侵攻したらしい。
日本側の伝承はここまでである。
川を遡上したとすれば、甘浦(かんぽ)にそそぐ大鐘川が想定される。
朝鮮史書『三国遺事』によると、文武王(661〜681)は大鐘川の河口に、倭兵を鎮(しずめ)るため、感恩寺を創建したとする。倭はしばしばこの川を伝って侵攻した事がうかがわれる。舟で内陸部に至り、舟を降り甘浦街道を伝って、慶州を目指すのである。

朝鮮史書『三国史記』新羅本紀は、次のような興味深い記述を残す。
奈勿尼師今(なふつにしきん)九年四月(王暦年次によると奈勿尼師今九年四月は西暦364年の4月となる。)

『倭兵、大いに至る。王これを聞き、恐らくは敵(あた)るべからずとして、草の偶人数千を造り、衣(ころも)を衣(き)せ、兵を持(じ)せしめて、吐含山(とがんさん)の下に列べ立て、勇士一千を斧けん(山+見)の東原に伏せしむ。倭人、衆を恃(たの)み直進す。伏せるを発して其の不意を撃(う)つ。倭人大いに敗走す。追撃して之を殺し幾(ほとん)ど尽く。』

慶州東南郊外、吐含山の山麓あたりに、草の人形を立て、倭軍を欺き、防戦したとするのである。
リアリテーを持つ記述である。この二つの史書が述べる、倭と新羅の戦いは同一の戦役の記述と考える。そのことについて、次ページで詳述する。

また、この博多湾あたりを出発した軍団とは別に、もうひとつ福岡県宗像郡津屋崎の港から、沖ノ島経由で対馬に渡った軍団がある。
津屋崎町の宮地嶽神社は、新羅侵攻にあたって、この神社の裏山で戦勝を祈願し、帰還の後この地に神社を安置したとする伝承を残す。
また新羅侵攻には、「松浦の君」と「胸肩の君」が軍団の長となったとする。唐津から壱岐を経由して対馬に至った軍団の他に、津屋崎から沖ノ島を経由して対馬に至った軍団を想像させる。
いわゆる後の世に「海北道」(うみのきたみち)と呼ばれる大陸への渡海ルートである。これを裏づけるのが、沖ノ島の祭祀遺跡である。

沖ノ島は津屋崎の北50〜60kmの沖合いに浮かぶ、周囲4km足らずの絶海の孤島である。
四世紀代から十世紀初頭に至る祭場の跡と、十二万点にものぼる奉納品が発見されている。
この祭祀遺跡は、航海の安全を祈願したものとされる。しかし奉納された鏡、剣、馬具、装身具など、その遺物に大陸系の遺物を多く含むこと、奉納品の豪華さ、その量の多さ、更に祭祀の主体が、大和王権という中央政権によって執り行われている事は、単なる航海の安全だけを祈ったものでないことを物語る。
朝鮮半島へ出兵する際の、戦勝祈願と戦勝報告の場所と考えるほうが妥当である。

『お言わずの島』として、その島の存在すら秘し、一木一草たりとも持ち出すことを禁じた沖ノ島は、この島の祭祀の様子を今日に伝える。23箇所の祭場跡の中で、その最も古い21号遺跡は四世紀代とされ、岩上に残る祭場の跡は、ひょっとすると、神功に従って新羅に出兵し、神功とともに宮地嶽神社の祭神として祀られる、勝村、勝頼等の戦勝祈願の跡かもしれない。

ここまで及言するのは無理があるとしても、四世紀末、大和王権は度々朝鮮半で軍事行動を繰り返している。その戦役と深いかかわりを持つ遺跡と考えて間違いない。

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