第二章 『日本書紀』の実年代

(4) 『三国史記』の王歴年次に1年の狂いがある

 朝鮮半島はBC107年、漢の武帝によって楽浪郡が設置され、早くから漢文化の影響を受けている。当然漢字文化も伝わっている。
それを裏付ける遺物として、慶尚南道昌原市茶戸里遺跡の墳墓から、筆が出土している。この古墳群から出土した漢鏡から、紀元前後の遺跡と推定される。紀元前後には韓半島南部まで漢字文化が伝わっている。

新羅本紀の原典の一部は、真興王六年(545)に編纂された『国史』によるとされる。その『国史』が更に古い記録を採録しているとすれば、新羅の前身である、辰韓といわれた地域の、歴史を伝えている可能性は否定できない。四世紀以前であつても充分歴史資料として利用できる。

しかし『三国史記』の王暦年表には四、五世紀代に一年の狂いがある。
その年表によると、広開土王(こうかいどおう)元年は、壬辰で392年となる。ところうが、広開土王碑文の年次は辛卯の年で西暦391年である。1年の差がある。

広開土王碑文とは、かっての高句麗の都、現在の中国吉林省集安に、高句麗第19代の国王、広開土王の功績を顕彰して、息子の長寿王が建てた、高さ6メートルにおよぶ石碑である。
この碑文によるかぎり、広開土王元年(永楽元年)は辛卯の年で西暦391年である。石碑の建立は414年で、年次の信頼性は『三国史記』年表より、はるかに高い。
このことから『三国史記』の四世紀半ばから五世紀あたり、王暦年次には一年の狂いが有る。
従って奈勿尼師今(奈勿王)九年『倭兵、大いに至る。・・・』の戦役は、西暦364年ではなく、363年4月のことである。

先に『古事記』の天皇崩御年干支から、仲哀の没年を西暦362年と仮定した。
『日本書紀』による新羅侵攻年次は、仲哀が没した同年の十月とするから、奈勿尼師今九年の戦役と、『記紀』の新羅侵攻の記事を、同一の戦役とするには、なお半年の開きがある。
次にこの謎について述べる。

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