第二章 『日本書紀』の実年代

(5)新羅出兵は仲哀死亡の翌年

 『三国史記』によると、倭が侵攻して来る季節は、すべて春から夏にかけてである。
『日本書紀』の新羅出兵の月日『冬十月三日和珥(わに)〔対馬上県郡鰐浦〕の津より発した』という、冬に軍事行動を起こしたという記述は疑わざるを得ない。

旧暦十月頃の朝鮮海峡は、台風に遭う可能性もあり、波高も高くなる。渡海して軍事行動をとるには適さない時期である。
記紀は共に、軍船は追い風を受けて一気に侵攻したとする。北西の風が吹く、冬場の侵攻ではない。

記紀はともに、新羅侵攻の時期をうかがわせる、エピソードを記す。
神功皇后が松浦県(まつらのあがた)の玉島の里、小河(佐賀県東松浦郡浜玉町玉島川)でアユ釣りをしたというエピソードである。
浜玉町南山の玉島神社前には、皇后が鮎釣りをしたという伝承の石がある。

アユが釣れるのは一般に海から稚アユが遡上する春先しかない。夏場は河床の珪藻を食べるので餌釣りは難しい。『日本書紀』は、アユ釣りのエピソードを仲哀が二月に崩御し、その年の四月のこととする。『古事記』には何年の事か明確な記述はないが、やはり四月はじめの事とする。肥前国風土記では、新羅出兵の際とする。アユを釣って戦勝を占ったとされる。
玉島川の場所は、現在の福岡市から壱岐対馬を経て朝鮮半島に渡る経由地である。新羅出兵の途上であろう。
『日本書紀』の記すように、仲哀崩御の二ヶ月後に神功が玉島に出向いたとするのは無理がある。新羅出兵の際しか機会はない。だとすると、新羅出兵はアユの釣れる、四月なのである。それは仲哀崩御の翌年しか機会はない。

仲哀が没した年次を、古事記の崩御干支から362年とすれば新羅出兵は翌年の四月すなわち、363年の四月である。まさにこれは『三国史記』新羅本紀が記す、奈勿尼師今九年四月の条『倭兵、大いに至る・・・』の年次及び月と一致する。
ここに成立を異にする『日本書紀』と『三国史記』の戦役の年次が一致する。共に史実の一端を伝えると考えられる。したがってこのあたりの『古事記』の天皇崩御干支は正しいとみることができる。

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