第二章 『日本書紀』の実年代

(6)早められた新羅出兵の年次

  それでは『日本書紀』はなぜ、新羅出兵を仲哀崩御の年とするのか。
それは応神の出生と深くかかわる。

『日本書紀』は次のように記す『このとき(新羅出兵のとき)たまたま皇后の出産の月であつた。皇后は、石を取って腰に挿(さ)しこみ、祈って、「事が終わってもどってきた日に、この土〔地〕で生むように」といった』

怪しげな説話である。
石を腰に挿しこみ出産を遅らせることなど、できるはずもない。
応神が仲哀の子であることを主張するために、付け加えられた説話であろう。
『日本書紀』は、仲哀が崩御した日を、『仲哀九年二月五日急に病気になり翌日崩じた』とする。応神の生まれたのは、その年の十二月十四日である。
仲哀の死の前日から数えて十ヶ月と十日である。
古来から俗説として流布している妊娠期間十月十日である。明らかに作為された応神の誕生年月日である。

皇后が腰に石を挿しこみ、出産月を遅らせたと強弁しても、さすがにこれ以上遅らせる訳には行かなかったのである。
応神出生の年月日を実際より、早めた可能が高い。
応神の出生を新羅出兵の後とする以上、新羅出兵の年月も早めねばならなかった。
しかしさすがに、新羅出兵の時期を作為した作者も、十月が渡海して軍事行動を起こすに適さないという事や、人間の妊娠期間が40週くらいという事を知らなかったのかもしれない。
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