第二章 『日本書紀』の実年代

(7) 『日本書紀』年次の定点

 朝鮮史書『三国史記』や、広開土王碑文の倭に関する記事から、『日本書紀』神功紀あたりの実年代を知る事ができる。その関係を見てみよう。

『三国史記』百済本紀は、辰斯王八年十月の事として、王が出かけたまま帰ってこないという、異常な死をとげたと記す。次のような記事である。
「王は狗原で田猟(でんりょ)していたが、十日たっても帰ってこなかった。十一月、王が狗原の行宮(あんぐう)で薨去(こうきょ)した。」
そして辰斯王が死んだので、阿しん王が王位に就いたとする。

 この事件と関連するのが『日本書記』応神三年の条である。それは次のように記す。
「百済の辰斯王が立ち、貴国の天皇に礼を失した。それで、紀角宿禰(きのつののすくね)、羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)石川宿禰、木菟(つく)宿禰他を遣(つかわ)してその無礼の状を叱責した。これがもとで、百済国は、辰斯王を殺して謝った。紀角宿禰らは、阿花(あけ)を王にたて帰(国)した。」とするのである。

百済本紀は辰斯王の異常な死亡について詳しくは記さないが、『日本書記』によれば、辰斯王は反勢力に暗殺されたらしく、阿しん(阿花)王擁立に、倭が関与したことが推測される。

百済本紀によれば、辰斯王が没し、阿しん王が擁立されたのは、広開土王元年である。その年次は広開土王碑文に従うかぎり、391年のことである。したがって紀角宿禰たちが、出兵した年次は391年と推測できる。

 一方広開土王碑文に次のような倭の侵攻が記される。
『百済と新羅とは、もとこれは(高句麗の)属民であって、もとから朝貢していたのである。しかるに倭は、辛卯の年(391年)以来、海を渡って、百済・□□・新羅を破って、臣民としてしまつた』とする。

そしてこの碑文の記事と関連するのが、392年に倭が新羅の王城を包囲したという、『三国史記』新羅本紀、奈勿尼師今三十八の記事である。
『倭人来りて金城を囲む。五日になるも解(と)かず。将士、皆出(みない)でて戦うことを請えり。王曰く。今、賊は舟を棄てて深入(しんにゅう)し、死地に在り。鋒(みね)、当るべからずと。すなわち城門を閉ざす。賊、功無くして退く。王、先ず勇騎二百を遣わして、其の帰路を遮(さえぎ)らしめ、又、歩卒一千を遣わして、独山(どくさん)に追わしむ。夾撃して大いにこれを敗(やぶ)る。殺獲するもの甚(はなは)だ衆(おお)し。』

奈勿尼師今三十八は三国史記の年表では393年となる。しかし『三国史記』のこのあたりの年表に一年の誤りがあるから、この年次は392年である。
広開土王碑文の倭の侵攻年次を『辛卯(391年)の年よりこのかた』と読めば、『倭人来りて金城を囲む。・・・』とする奈勿尼師今三十八年の記事は、碑文の伝える戦役と見る事が出来る。

成立の過程をまったく異にする、三つの文字資料が、391年から392年に、朝鮮半島南部で、倭の軍事行動があった事を伝える。
この事から応神三年は、紀角宿禰たちが朝鮮半島出兵を終えて帰った年、西暦392年であることが解る。これが『日本書記』年次の一つの定点となる。
『日本書紀』は応神が即位した年を、庚寅(かのえ・とら)とする。庚寅は390年で『日本書紀』の紀年はこのあたり干支二順、120年古くしている。このあたり干支2順120年新しくすれば、日本書記の実年代が復元できる。

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