第二章 『日本書紀』の実年代

(8)古事記天皇没年干支を中国史書で検証 

 先に朝鮮史書『三国史記』との関係から、古事記の天皇没年干支は正しいとした。
このことを、中国史書によつて検証してみる。

中国史書には『晋書』の266年『倭人來獻方物』を最後に、四世紀代の倭についての記述は見当たらない。五世紀になって『晋書』、『宋書』、『梁書』、『南斉書』などに倭についての記述をみる。 一般に倭の五王と称される記述である。

下記に中国史書と古事記の天皇没年干支の関係を表にまとめた。
古事記天皇没年干支と中国史書との対応 日本書紀天皇没年
10 崇神 戊寅(紀元318)没 辛卯 紀元前30
11 垂仁 庚午 紀元70
12 景行 庚午 130
13 成務 乙卯(355)没 庚午 190
14 仲哀 壬戌(362)没 庚辰 200
神功 己丑 269
15 応神 甲午(394)没 庚午 310
16 仁徳 (413)東晋安帝倭国方物を献ず(晋書倭条)
(413)安帝の時、倭王賛あり。(梁書諸夷伝倭条)
永初二年(421)詔(みことのり)していわく「倭讃、萬里貢を修む。遠誠よろし。甄(あらわ)すべく、除授を賜うべし」と。(宋書倭国伝)
元嘉二年(425) 讃また司馬曹達を遣し表を奉り方物を献ず。(宋書倭国伝)
丁卯(427)没 己亥 399
17 履中 元嘉七年(430)倭国王、遣使して方物を献ず(宋書文帝紀)
壬申(432)没 乙巳 405
18 反正 元嘉十三年(436)讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。表して除正を求む。詔して安東将軍・倭国王に除す。珍、また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍号に除正を求む。詔して並びに聴す。(宋書倭国伝)
丁丑(437)没 庚戌 410
19 允恭 元嘉二十年(443)倭国王済、遣使奉献す。また以って安東将軍倭国王と為す。(宋書倭国伝)
元嘉二十八年(451)使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍はもとのごとく、ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。(宋書倭国伝)
甲午(454)没 癸巳 453
20 安康 大明四年(460) 倭国遣使して方物を献ず。(宋書孝武帝紀)
大明六年(462)済死し、世子興遣使貢献す。詔していわく「・・・宜しく爵号を授くべく、安東将軍・倭国王とすべし 」(宋書倭国伝)
丙申 456
21 雄略 (471)埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に刻まれた銘文の、辛亥年を471年、獲加多支鹵大王を雄略として、昇明二年(478)の武を雄略とすれば、王名の明示されていない、477年遣使の倭王は、雄略以外ありえない。
昇明元年(477)倭国遣使方物を献ず。(宋書順帝紀)
昇明二年(478)興死して弟武立つ。自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。
昇明二年(478)遣使上表していわく・・・詔して「武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅 秦韓・慕韓・六国諸軍事安東大将軍倭王とす」(宋書倭国伝)(宋書順帝紀)

建元元年(479)倭王武を鎮東大将軍とす。(南斉書東南夷伝倭国条)
己巳(489)没 己未 479
22 清寧 甲子 484
23 顕宗 丁卯 487
24 仁賢 戊寅 498
25 武烈 天監元年(502)倭王武を征東将軍とす。(梁書武帝紀)

『古事記』による雄略の没年己巳を489年とする限り、この502年の朝貢は雄略ではあり得ない。建元元年(479)の倭王武と、天監元年(502)の倭王武とは別人となる。前者は雄略、後者は武烈であろう。
丙戌 506
26 継体
辛亥 531
丁未(527)没
27 安閑 乙卯(535)没 乙卯 535
28 宣化 己未 539
29 欽明 辛卯 571
30 敏達 甲辰(584)没 乙巳 585
31 用明 丁未(587)没 丁未 587
32 崇峻 壬子(592)没 壬子 592
33 推古 戊子(628)没 戊子 628

 古事記の没年干支を正しいとすれば『宋書』に記述された讃・珍・済・興・武は、讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略となる。

結論として、古事記の没年干支が正しいとする仮説に大きな破綻はない。
しかし一ヶ所、『宋書』の記述と矛盾する。
それは『宋書』倭国伝の次の記述である。
『元嘉十三年(436)讃死して弟珍立つ。遣使貢献す。(宋書倭国伝)』すなわち珍を讃の弟とする記述である。

古事記が437年に没したとする反正は、『記紀』によるかぎり仁徳とは親子関係である。
讃を仁徳、珍を反正とすると、宋書倭国伝が、珍を讃の弟とする記述と矛盾する。
反正は履中の弟である。
したがってこの矛盾を、珍(反正)は前王履中の弟という説明を、宋の官吏が誤って理解し、讃(仁徳)の弟と解釈したとでもする必要がある。

そのように推測すれば、従来議論の多かった讃は仁徳ということになる。
また王の名が記されていない、430年の倭国王は履中であり、この人物については遣使の記録のみで、王名をとどめない。460年の遣使は安康、477の遣使は雄略となる。

 更に興味深いのは『梁書』の次の記述である。
『天監元年(502)倭王武を征東将軍とす。』(梁書武帝紀)、
この記述について、梁が前王朝の君臣関係をそのまま引き継いだもので、この年次に、武による遣使があったわけではないとする説がある。
しかし古事記の天皇没年を正しいとするかぎり、502年には雄略は生存していない。中国王朝が、在位の定かでない王に、爵号を与えるような、ずさんな除授を行なったとは思われない。
該当が推測されるのは武烈である。私は武烈による梁への遣使が、実際に行われたと考える。
『宋書』の武と、『梁書』の武は雄略と武烈という、異なる王の遣使である可能性が高い。

502年の梁書の遣使までを一連の歴史として捉えるのであれば、「倭の五王」ではなく「倭の六王」となる。また遣使した王名の記述のない430年の遣使を履中とすれば、413年から502年の間に遣使した倭王は七人となる。

古事記の天皇没年干支を正しいとした場合、中国史書との間に若干の齟齬(そご)をきたすが、決定的な破綻はない。
それに比べ、日本書紀の年次を正しいとすると、説明のつかない破綻をきたす。
日本書紀によると413年から479年の間の天皇は、允恭・安康・雄略の三名である。中国史書の五名との対応がとれなくなる。
また、421年の讃、436年の珍、443年の済という三人の遣使に対し、日本書紀のこの期間に該当する天皇は、411年から453年まで在位したとする允恭一人である。允恭の没年については古事記が454年、日本書紀が453年と1年の違いしかない。在位年期間が少しでも狂うと、中国史書の遣使年次との間に整合性が得られないのである。
この点からも古事記の天皇没年干支は、ほぼ正しい情報を伝えると考える。

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