第二章 『日本書紀』の実年代

(9) 袴狭(はかざ)遺跡出土の外洋船団図

 北部九州に残る神功皇后新羅侵攻の伝承から、侵攻の経路を想像するとしても、はたして四世紀代に、朝鮮半島で軍事行動を起こせるような、兵力を渡海させる能力があったか疑問が残る。これに関し興味深い出土品がある。

兵庫県出石(いずし)町の袴狭遺跡(はかざ)遺跡から出土した板に、4世紀代のものと思われる船団が線刻されている。





巨大船を中心として、十五隻の船が、線刻画でリアルに描かれている。
舟はいずれも、舳(とも)先が高くせり上がった、外洋船である。船団を組んで航行する様子を描いたと思われる。
四世紀代であれば、漁船団や、商船団であるはずはない。軍船団以外考えられない。これだけリアルな描写は、想像で描いたものではない。実際に船団を見た者が描いている。おそらくこの船団に加わった者であろう。

おもしろいことに、この袴狭遺跡のある出石町は、神功皇后と浅からぬ因縁がある。
出石から少し離れるが、同じ山陰地方の福井県美浜町菅浜は、神功皇后新羅出兵、と幼少の応神が禊(みそぎ)をしたという、伝承を残す場所である。
また神功皇后の祖母とする、菅竃由良度美(すがまゆらとみ)を祀る須可麻(すかま)神社がある。この由良度美は天日槍(あめのひぼこ)の子孫とする。天日槍は垂仁の時代、新羅から渡来した人物とされ、出石町の但馬一宮出石神社に祀られる。船団を描いた板は、この出石町からの出土である。
神功皇后の新羅出兵に際し、神功の祖母に繋がる、この出石や美浜地方の人々が、神功の出兵要請に応じた可能性は充分考えられる。

 そのことを裏付ける系図がある。
丹波と呼ばれる京都府宮津市籠(この)神社の宮司家に伝わった、海部直等氏系図(国宝勘注系図)である。その注記によると、十八世孫建振熊宿禰は、丹波、但馬、若狭の海人三百人を率いて、神功皇后に従い、新羅に出兵したとする。この船団図を描いた木板が出土した出石町は但馬と呼ばれた地域である。
私は、袴狭(はかざ)遺跡出土の外洋船団図は、建振熊が率いた海人たちが自分たちの活躍を描いた図と想像する。渡海作戦は、この図に描かれたような船団で行われたのである。

先に述べたように新羅侵攻の軍事行動が行われたのは363年である。そして神功は生まれたばかりの応神を擁して大和に帰還しようとする。するとこれを阻もうとする仲哀の遺児である、駕篭坂王、忍熊王と戦いになる。
この戦いで活躍するのが建振熊命である。最後は建振熊命が忍熊王を琵琶湖のほとりに追い詰め討ち滅ぼしてしまう。建振熊命は神功、応神朝成立の功労者なのである。
したがぅて建振熊命が活躍するのは、この363年ころである。ところうが日本書記には建振熊という人物がもう一度登場する。
仁徳六五年の条で、飛騨の国で両面宿儺を討った人物として登場する。だがここで一つの疑問が生じる。仁徳の時代といえば、五世紀の初め頃であろう。先の建振熊命が活躍した363年から半世紀くらい経っている。
同一人物とするにはいささか疑問がある。そこで私は『勘注系図』を紐解くことになった。


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