第三章 倭人伝と『日本書紀』の接点

(3) 台与も登場する

  『勘注系図』には、もう一人「大倭姫命」という尊大な名前を持つ人がいる。
七世孫建諸隅命(たけもろずみのみこと)の娘、大倭姫命である。
『勘注系図』は建諸隅命のまたの名を、丹波縣主由碁理(たんばあがたぬしゆごり)とする。そして建諸隅命は開化の御世に、丹波の国に竹野媛の屯倉(みやけ)を置いたとする。屯倉とは天皇あるいは皇族の直轄領のことである。

一方『古事記』は開化が、丹波大縣主由碁理(たんあおおあがたぬしゆごり)の女、竹野媛を娶ったとする。『日本書紀』は、(開化)天皇は丹波の竹野媛をいれて妃としたとする。
したがって『勘注系図』が伝える、建諸隅命は丹波の縣主由碁理とする伝承を信じれば、建諸隅命の娘大倭姫命は、開化の妃となった竹野媛 (姫)である。

『勘注系図』はこの人のまたの名を、天豊姫(あまとよひめ)とする。天(あま)は後の海部(あまべ)につながる一族の氏(うじ)名である。従ってこの人の名は「トヨヒメ」である。だとすれば中国史書が伝える、「台与(とよ)」である。
『魏志』倭人伝は卑弥呼の没後、男子の王が立ったが、国中が服さず戦乱に陥ったとする。その後、卑弥呼の宗女、歳十三歳の台与が立ち、国中が定まったとする。
天豊姫は私が卑弥呼とする宇那比姫の、甥の子で同族の女である。まさに『宗女』である。
大倭姫命とされる天豊姫は、開化の妃であり、大和朝廷の女王なのである。
だが『記紀』系譜のこのあたりは、欠史八代とされる部分で、詳しい伝承が失われていたか、あるいは男子一系の皇統譜としたために、卑弥呼も台与も、女王としては登場しない。

それではなぜ丹波の系譜に、大和朝廷の女王が登場するのかである。その疑問を解く鍵が『先代旧事本紀』が伝える尾張氏の系譜にある。




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