第三章 倭人伝と『日本書紀』の接点

(7)台与と一緒に爵位を受けた男王

 晋の泰始二年(西暦266年)倭の女王、台与が中国王朝の西晋に朝貢した。
少し奇妙に感じられる事であるが、台与の後に立った男王が台与と並んで中国の爵命を受けている。すなわち西晋(265年 - 316年)の外臣として爵位を受けたのである。
朝貢の主は、他でもない女王とされる台与である。同時に男王が存在する。問題はこの男王が誰かである。
結論から言うと、この人は九代開化である。
あまりに唐突過ぎて、にわかには信じられないかもしれないが以下にその論拠を示す。

中国文献の次の一節は極めて興味深い。
636年に成立した『梁書(りょうしょ)』は『復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命』とする。
台与が王位に立てられた後、男王が立ち、中国王朝の爵位を受けたとする。
また801年成立の『通典(つうてん)』でも『立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢』として同様な記述を成す。

一部の研究者は、「其後復立男王」とは、台与の時代よりずっと後の時代の男王とする。だが『通典』の記述をを読む限り、「晉武帝太始初」頃のことである。すなわち、泰始二年(西暦266年)に、台与と一緒に西晋の爵位を受けたと解釈するしかない。問題はこの男王が誰なのかである。
先に『勘注系図』の八世孫建諸隅(たけもろずみ)の子、天豊姫命を中国史書の伝える台与とした。
一方古事記は、旦波(たんば)の大縣主、名由碁理(ゆごり)の女、竹野比賣が開化の妃になったとする。
『勘注系図』によれば由碁理とは建諸隅の別名でもある。したがって、天豊姫すなわち台与が開化の妃竹野媛である。

それはまた、十三才で王位に就いた台与が、その後立った男王すなわち、開化の妃に成ったことを意味する。台与という倭王権の主が、西暦266年その前年に成立した西晋に朝貢し、九代開化と並んで、中国王朝の爵位を受けたのである。
ここに欠史八代と称され、その実在さえ疑われる、九代開化の実年代が明らかに成る。九代開化は266年頃の人なのである。
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