第四章 卑弥呼時代の天皇

(2) 卑弥呼の子孫の墓から出土した遺品

  東京国立博物館に卑弥呼の遺品と考えられる品がある。
中平の年号が刻まれた、後漢時代の鉄刀である。出土したのは奈良県天理市の東大寺山古墳である。
その刀に「中平(184〜189年)」という後漢時代の年号が金象嵌されている。おそらくこの刀は、卑弥呼の朝貢に対する下賜品であろう。
中国大陸では後漢時代の鉄刀は何千振りと出土している。だが年次の刻まれた刀は2〜3振しか知られていない。
その1振りが日本列島から出土したのである。考えられるのは朝貢の際、相手から下賜された品という推測である。

この刀を発掘した金関 恕氏は、刻まれた文字の字体から次のような見解を述べる。
後漢の官営工房の字体は、様式化が進んだ隷書体となる。これに対し出土した刀の字体は、稚拙ではないが、様式化が進んでいないとする。したがって後漢の官営工房の象嵌ではなく、後漢の都、洛陽以外の地で象嵌されたのではないかと推測する。



この事から、私は189年遼東王を名乗った公孫度(こうそんたく)からの下賜品ではないかと考える。
公孫度は、元は後漢王朝の遼東太守という地方官に過ぎない。だが後漢王朝の衰退に乗じて、遼東王を名乗り半独立国家を樹立したとされる。

 大和朝廷はこうした大陸の政治情勢に極めて敏感である。
239年、卑弥呼が魏に使いを送るのも、魏が遼東の公孫氏を滅ぼし、中国東北部の覇権を握った翌年である。また266年台与が西晋に使いを送ったのも、西晋が樹立された翌年である。
おそらく公孫度が、遼東王を名った189年に、卑弥呼による公孫氏への朝貢が有ったと推測する。そしてその際下賜されたのが、東大寺山古墳出土のこの刀であろう。

 それではなぜその刀が、東大寺山古墳から出土したかである。
東大寺山古墳のある奈良県天理市櫟本(いちのもと)町あたりは、古代有力豪族和邇氏の住んでいた場所である。
東大寺山古墳は、この和邇氏の墓なのである。
和邇氏の祖は、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)である。天足彦国押人は、五代孝昭と尾張氏の世襲足媛(よそたらしひめ)の長男である。
そして私が卑弥呼とする宇那比姫は、この天足彦国押人の妻なのである。
したがって和邇氏の子孫は宇那比姫の子孫でもある。
宇那比姫の子孫の墓から、卑弥呼の遺品が出土したのである。このことは宇那比姫が天足彦国押人の妻であり、かつ卑弥呼であるこを裏付ける


私は建振熊命という和邇氏の人物を追って『勘注系図』を紐解いた。そして『勘注系図』に宇那比姫という卑弥呼とおぼしき人物を見た。
その宇那比姫を追って、天足彦国押人命という、和邇氏の祖とされる人物に出会う。更にその子孫の墓から宇那比姫すなわち卑弥呼の遺品と思われる鉄刀に遭遇した。
その遺品の出土した東大寺山古墳は、四世紀末頃の築造である。おびただしい武具などが出土している。武人の墓である。私はこの東大寺山古墳の被葬者は、363年の新羅侵攻と神功、応神朝の樹立で活躍した建振熊命の墓ではないかと考えている。
250年の時空をさまよって、再び建振熊命に遭遇したのである。

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