第五章 系譜は信じられるか

(3) 神武から崇神は7世代

  系譜伝承は系譜単独では、その正しさを評価することは難しい。だが複数の系譜を並べて検討すると、おおよその真贋が判明する。
世代数が他の系譜と著しく異なる場合は、誤りがあるか、創作が疑われる。

 古い時代の天皇系譜と諸家の系譜を比べると、天皇系譜には次のような問題がある。
『記紀』が伝える天皇系譜では、神武から崇神までの世代数は10世代である。
その期間に対応する、物部氏、尾張氏、海部氏、紀氏、大伴氏、倭氏、三輪氏の世代数は何れも、6世代から7世代なのである。
天皇系譜のみが10世代で他の世代数と合わない。この矛盾をどのように説明するかである。
常識的に考えて、1世代の年代幅が20年以下や、あるいは50年以上になることは極めてまれであろう。したがってこのような拘束条件のもとに、諸家の系譜と天皇系譜を関連付けると、整合性をとりにくい箇所がある。
 そのひとつは、物部氏の神武世代から数えて3世代目、大禰(おおね)、出雲醜大臣(いずもしこおおおみ)、出石心大臣(いずしこころおおみ)という同一世 代の人物が、天皇系譜の三代安寧(あんねい)、四代懿徳(いとく)、五代孝昭(孝昭)の時代の人とすることである。

また尾張氏系譜では、五代孝昭の妃となる、世襲足媛(よそたらしひめ)は神武世代から数えて3世代目である。3世代で天皇系譜の5世代に対応している。こ れらの関係を、先に述べた1世代の時間幅20年から50年の間に収めて、整合性を得ることはきわめて難しい。




 この問題を解く鍵がある。
『先代旧事本紀』巻第七、天皇本紀に、観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと)(五代孝昭)は磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)(三代安寧)の皇太子である、という不思議な記述を残す。
『記紀』系譜では五代孝昭は、四代懿徳の子である。また『先代旧事本紀』でも、他の箇所では五代孝昭は、四代懿徳の子とする。したがって『先代旧事本紀』のこの記述は、書写の過程で起きた単純な誤りとされてきた。

だがもしこの記述が誤りでないとすれば、安寧から孝昭は三世代ではなく二世代の可能性がある。安寧と懿徳、あるいは懿徳と孝昭が、兄弟なら他の系譜とおおむね問題なく対応できる。
したがって私はこの『先代旧事本紀』の、五代孝昭が三代安寧の子、とする記述は正しいのではないかと考える。安寧、懿徳、孝昭と続く系譜は3世代ではなく、2世代であろう。

 またもう一箇所整合性のとりにくい箇所がある。
大伴氏の豊日命(とよひのみこと)は七代孝霊、九代開化と三代にまたがる。このあたりも一世代の時間幅を20年から50年の間に収めて、整合性を得ることはきわめて難しい。

また『日本書紀』は崇神十年の条で、七代孝霊の児、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)を崇神の姑(おば)とする。だが『記紀』系譜によれば、倭迹迹日百襲姫は、崇神の祖父母世代で、大叔母とも言うべき世代の人である。
『書紀』は崇神時代の事として、倭迹迹日百襲姫が武埴安彦の乱の後、大物主の妻となる。また弟の彦五十狭芹彦は、武埴安彦軍と戦ったり、四道将軍の一人として吉備に派遣される。共に崇神時代に活躍した人物で、崇神の叔父、叔母くらいの世代としか考えられない。
したがつて、七代孝霊から九代開化の世代間隔も一世代で、この間の皇位継承には父子継承以外が含まれると推測する。

七代孝霊から九代開化の世代間隔を一世代とすれば、先の三代安寧から五代孝昭の世代間隔が一世代であることとあわせて、神武から崇神に至る世代数は十世代ではなく八世代となる。
八世代であれば、この間を六世代から七世代とする、他の系譜との整合性がほぼ保たれる。
目次
前のページ 次のページ