第六章 王都出現

(5) 秋津遺跡の年代

 秋津遺跡を発掘調査している橿原考古学研究所は、塀で囲まれた特異な建物遺構の年代を四世紀前半とする。
その塀で囲まれた建物遺構の中からは、あまり遺物が出土していない。たぶん神社のような遺構で塀の中は清浄に保たれていたようである。
その建物遺構の北側に流路跡がある。その流路から沢山の土器片が出土した。多くは布留1式から、2式とされる。布留1,2式の年代は四世紀の前半とされる。このことからこの遺構の年代を四世紀前半とするのである。

しかし私はこの遺構の年代推定に大きな疑問を持っている。
この遺構から、多孔銅鏃とそれと同時代とされる東海系の土器片が、複数出土していることである。

多孔銅鏃の研究に詳しい人物がある。愛知県埋蔵文化センターの赤塚次郎氏である。氏によると多孔銅鏃は東海地方にその起源を持ち、二世紀中頃から三世紀前半に周辺地域に広がったとする。



次の図は氏による多孔銅鏃の編年である。
氏による年代観に従う限り、多孔銅鏃の年代は、二世紀前半から三世紀中頃の遺物である。



もちろん多孔銅鏃一点のみであれば、何らかの理由で古い時代の物がまぎれ込んだという見解も成り立とう。
しかしこの多孔銅鏃と同時代とされる、東海系の土器片も複数出土しているのである。
このような遺物が出土する遺構を四世紀前半とする見解には疑問が多い。
私はこの遺構は三世紀前半までさかのぼると考えている。




炭素年代測定による建物遺構の年代

方形区画施設の年代は卑弥呼の在位年代の物である。そのことを炭素年代測定値が裏付ける。
次の図は日本産樹木年輪の示す炭素14年代とIntCal09とを比較したものである。

出典:国立歴史民族博物館研究報告 第163集 2011年3月
「古墳出現期の炭素14年代測定」
日本産樹木年輪の示す炭素14年代とIntCal09との比較

ヨーロッパ産の樹木を用いて作成された北半球標準の較正曲線IntaCalと年代の解る国産樹木の炭素年代測定値では、1世紀代から3世紀頃に於いて日本産樹木の炭素年代値は、古い値を示すことが解る。
この図に南半球標準較正曲線を書き加えたのが次の図である。

以前私はブログで、日本列島出土試料の推定年代は、南半球標準のShCalで較正した年代より新しくはならないとした。しかし、これは訂正する必要がある。ShCalで較正した年代より大幅に新しくなることは無いが、必ずしもShCalよりは新しくはならないとは言えない。
だがこの遺構が、古墳時代前期に収まらないとする見解に変わりはない。

橿考研が、古墳時代前期とする遺物の炭素年代値は、次のようなものである。


この中で古い炭素年代値を示した掘立柱建物について、日本産樹木のグラフを元に、おおよその年代を推定してみる。


炭素年代値1910±20のSB0040、および1900±20のSB0030bは、1世紀から3世紀前半の年代を示す。可能性の高いのは2世紀代である。
どう見ても西暦250年よりは新しくはならない。
また1850±20のSB0085についても300年代という可能性はあるが、可能性の高いのは3世紀前半である。
これらは測定された資料の年代で、それがそのまま建物の存続時期を表すわけではない。だがこれらの年代を古墳時代前期とすることには無理がある。
これらの掘立柱建物は、方形区画施設内部の建物である。方形区画施設の年代に通じると考える。
これは秋津嶋宮の一部であり、それは卑弥呼の在位期間の建物であると、私は考える。すなわち2世紀末頃から、3世紀中ごろに存在したのである。炭素年代測定値はそのことを裏付ける。

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