第六章 王都出現

(6) 秋津島宮の場所

 私は宇那比姫を卑弥呼とする。孝安は宇那比姫の義理の弟で、卑弥呼の政治を補佐した男弟に他ならない。

したがって孝安の秋津島宮こそ卑弥呼の王宮なのである。『魏志倭人伝』は卑弥呼の王宮について「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」とする。
柵をめぐらした 建物や物見櫓が在ったことを伝える。しかもそこには千人の奴婢が仕えていたとする。相当大きな建物群の存在が想像される。
私はこの秋津島宮の一角が、京奈和自動車道建設に伴う事前発掘調査で出土するのではないかと期待している。

その具体的な場所である。
現在秋津島宮跡とされる場所がある。御所市室の地に「室の大墓」の名で知られる、宮山古墳がある。その後円部に接して八幡神社が祭られる。その境内の一角に、秋津島宮の石碑が建つ。しかしこれは大正四年、大正天皇の即位を記念して、奈良県が建立した物で、ここが本当に秋津島宮跡かは定かではない。

『帝王編年記』という14世紀に成立した書物がある。それによると孝安の秋津島宮を、『掖上池南西田中なり』とする。
八幡神社の境内は田んぼに隣接するが、田の中ではない。なにより宮山古墳は、古くから室の大墓としてよく知られた、全長238mの前方後円墳である。
もしこの場所を指し示すなら、宮山古墳を目印にして、その場所を記すであろう。『帝王編年記』の記す、秋津島宮跡という伝承地は、ここではない。

現在掖上池という名の池は見当たらない。その掖上池ではないかと推測される場所がある。
玉手山の麓に満願寺という寺がある。古くはその寺の前が池で在ったと言われる。堤が切れて池が消滅したようである。その切れた場所を「きれずみ」と呼び今もその名を残す。私はここが掖上池と考える。
『帝王編年記』が伝える秋津島宮はこの場所の南西の田んぼの中なのである。

また和州旧跡幽考という江戸時代の書物がある。それによると、秋津島宮の伝承地を『寺村より乾(いぬい)にして川の東』とする。寺村とは現在の御所市稲宿(いなど)である。
秋津島宮はこの寺村の乾(いぬい)、すなわち北西に在ったとする。また川とは葛城川のことであろう。葛城川の東側である。

おおよそ推測される場所は、現在室と呼ばれる地域の真ん中あたりである。
私が推測するのは下の地図で黄色の点線で囲んだあたりである。このあたりに、卑弥呼の時代すなわち二世紀の末から三世紀の半ばにかけて奴婢千人を擁す王宮が存在したと考える。


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