卑弥呼の王宮が出土した

日本古代史が書き換わる。

 現在京都から奈良県を縦断して和歌山に至る自動車道が建設されている。京奈和自動車道である。その自動車道のインターチェンジが奈良県御所市室(ごせしむろ)あたりに建設される。工事に伴う遺跡の事前発掘踏査が行われた。
そこからとんでもない遺構が出土した。ここは室(むろ)と称される場所で、六代孝安天皇の室秋津嶋宮が在ったとされる場所である。秋津嶋宮の一部が出土したのである。孝安は『魏志倭人伝』が「男弟有りて佐(たすけ)て国を治」とする男弟に他ならない。したがって秋津嶋宮こそ卑弥呼の王宮でもある。卑弥呼の王宮が出土したのである。
以下の写真は高床式建物とそれを取り囲む塀の遺構である。




出土遺構を元にした橿原考古学研究所が作成した想像図である。



調査を行った橿原考古学研究所はこの遺構の年代を古墳時代前期とする。すなわち三世紀の後半から四世紀前半の遺構とする。
だが私はこの遺構は秋津嶋宮の一部であり、卑弥呼の王宮と考える。卑弥呼の在位年代である二世紀終わりころから、三世紀前半の建物遺構である。
それを裏付ける炭素年代測定値がある。測定された資料には古墳時代前期のものも多く存在するが、最も古い年代を示した高床式建物SB0040やSB0030bなどは、古墳時代前期に収まるような数値ではない。卑弥呼の在位年代二世紀末から三世紀前半と考えられる年代である。


次のグラフは、炭素年代測定値から実年代(暦年代)を推定したグラフである。SB0040やSB0030bは、共に西暦250年より新しくなることはない。卑弥呼の在位年代の建物である。


もう一つこの遺構が古墳時代前期に収まらないとする遺物がある。
多孔銅鏃である。

多孔銅鏃は、東海を中心に二世紀前半から三世紀中頃に周辺地域に広がったとされる。もちろん多孔銅鏃一点のみであれば、何らかの理由で古い時代の物がまぎれ込んだということも考えられる。しかしこの多孔銅鏃と同時代とされる、東海系の土器片も複数出土しているのである。
この遺構の年代は古墳時代前期よりさらに古い時代から営まれたことを物語る。
『日本書紀』や『古事記』は、秋津嶋宮の場所を室(むろ)とする。ここは室と称される地域である。秋津嶋宮の一部が出土しているのである。それは二世紀末から三世紀前半位在位した卑弥呼の王宮でもある。

ここが王都の地であり、王宮であったことを示す遺物がある。
瀬戸内海周辺から東海地方に及ぶ広い範囲から持ち込まれた土器が出土している。広い範囲から物資が持ち込まれる王都なのである。




また普通の集落ではあまり見かけない多彩な遺物が出土している。


 後に秋津遺跡と名付けられた、この遺跡は、縄文末期、弥生中期、古墳時代前期、更には古代から近世に至る複数の時代の遺構である。
問題は発掘に携わった橿原考古学研究所が古墳時代前期とする遺構の重要性を認識できていないことである。
発掘調査によって出土した遺構のすべてが保存できるわけではない。単に秋津嶋宮という歴代天皇の宮というだけなら道路建設により消え去ったとしてもやむを得ない。
だが私が主張するように、ここが卑弥呼の王宮であれば、何としてでも保存されるべき遺構である。すでに道路下に消えた部分は如何ともしがたい。しかし卑弥呼の王宮は奴婢千人が居住する王宮である。相当の広さが予想される。遺構の北側と南側には自然流路を利用した濠のようなものが存在した。南北の範囲はこれによって区切られる。


だが東西の範囲は確定していない。私はこの遺構は更に西側に広がると予想する。
西側には人家や秋津嶋宮小学校、工場などが立ち並ぶ。発掘可能な場所は限られるが、この遺構の全容を解明し出土した遺構を保存すべきである。



ここは卑弥呼の王宮という、何物にも代えがたい貴重な歴史遺産なのである。私はその重要性を訴え続ける。
そのことを理解してもらうためにここから1.2q離れた玉手山の古墳が径百余歩の卑弥呼の墓であることを証明したいと努力を続けている。
卑弥呼の墓発見

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卑弥呼の王宮出土