この人が卑弥呼
系譜で読み解く日本古代史 

邪馬台国出現
第6章  驚きの和邇氏系図

(7)和邇氏の墓から出土した卑弥呼の刀
第2部 卑弥呼の墓を追う
実在する径百余歩の円墳

第6章 驚愕の和邇氏系図
(1)幻の和邇氏系図
(2)和邇氏系図は偽作ではない
(3)他の系譜と整合性を持つ
(4)『記紀』より信じられる彦坐の妃
(5)卑弥呼には夫と子があった
(6)卑弥呼の男弟は六代孝安天皇
(7)和邇氏の墓から出土した卑弥呼の鉄刀

第7章 卑弥呼の墓を追う
(1)孝安の宮と墓所
(2)孝安陵のとなりの尾根
(3)径百余歩の円墳
(4)150m円墳の概要
(5)卑弥呼の墓とする理由
(6)卑弥呼の墓写真
(7)これは本当の孝安陵か?
(8)孝安陵の候補

(9)前方後円墳の原型

第8章 王宮を守れ
(1)秋津島宮の場所
(2)帝王編年記の秋津島宮伝承地
(3)予言ははずれた
(4)とてつもない神社遺構

(5)秋津島宮は必ず存在する

第9章 古代史が書き換わる
(1)仮説は証明される
(2)邪馬台国所在地論争の終焉
(3)『日本書紀』の実年代
(4)終章にかえて
 卑弥呼に夫や子供が在ったなどという話は、にわかには信じられないであろう。
しかし私が卑弥呼とする、宇那比姫の子孫の墓から、卑弥呼がもらったと思われる刀が出土している。

先に宇那比姫の夫は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)とした。天足彦国押人命は和邇氏の祖先である。
その和邇氏の本拠地は現在の奈良県天理市である。この天理市に東大寺山古墳と呼ばれる、全長140mの前方後円墳がある。この東大寺山古墳の発掘調査が1961年から62年にかけて、天理大学の金関恕(かなせきひろし)氏らによって行われた。

その発掘調査で、おびただしい量の鉄剣、鉄刀、槍先、鏃(やじり)、甲(よろい)などが出土した。その中の鉄刀の一つに、銘文が象嵌されていた。銘文は刀の背に金で象嵌されている。腐食が激しく一部読めない部分があるが、研究者によって次のように判読されている。

「中平□□五月丙午造作文刀百練清□上應星宿下辟□□」

おおよその意味は、「中平○年に百練の刀を造る。天上に在っては星を宿し、地上に在っては災いを避ける」というような意味である。慣用的な吉祥句である。

注目されるのはその「中平」という年号である「中平」とは後漢の年号で184年から189年の事である。
中平年という184年から189年といえば、卑弥呼が邪馬台国の女王として王位に就いた初めの頃である。したがってこの刀が卑弥呼の遣使に贈られた可能は極めて高い。

この刀を発掘調査した金関恕氏は次のように推理する。鉄刀に刻まれた銘文の字体は、後漢の官営工房の字体とは異なる。後漢の官営工房の字体は様式化が進み整った隷書体である。
この刀に刻まれた字体は稚拙ではないが、様式化が進んでいない。したがって銘文が刻まれたのは、後漢の官営工房以外の地ではないかと推理する。

そして私は次のように推理する。中国では二世紀後半になると、後漢の権威に陰りが見られるようになる。そのような状況の中で、189年遼東太守となった公孫度(こうそんたく)は、この地域の実質的な支配者となる。
このような大陸の政治状況に対応して、卑弥呼が公孫氏に朝貢し、公孫氏から、この刀を受け取ったのではないかと想像する。

また後漢の刀は数多く存在するが、年次を持つものは極めて少ない。知られている限り2、3振りとされる。誰から受け取ったかは定かではないが、年次から卑弥呼の遣使に贈られた刀であることはほぼ間違いなかろう。

ここで注目されるのは、この刀が東大寺山古墳という、和邇氏の墓から出土したことである。そしてこの和邇氏は、私が卑弥呼とする宇那比姫の夫、天足彦国押人を祖とする。
したがって東大寺山古墳に葬られた人物は、天足彦国押人の子孫で、それは宇那比姫の子孫でもある。
このことが卑弥呼には和邇氏の祖とされる、天足彦国押人命という夫が在ったことを証明する。また宇那比姫の子孫の墓から、卑弥呼が受け取ったと推測される刀が出土したことは、宇那比姫が卑弥呼であることの傍証ともなる。


第7章
(1)孝安の宮と墓所

第1部 この人が卑弥呼