この人が卑弥呼
系譜で読み解く日本古代史 

邪馬台国出現
第7章  卑弥呼の墓を追う

(1) 孝安の宮と墓所
第2部 卑弥呼の墓を追う
実在する径百余歩の円墳

第6章 驚愕の和邇氏系図
(1)幻の和邇氏系図
(2)和邇氏系図は偽作ではない
(3)他の系譜と整合性を持つ
(4)『記紀』より信じられる彦坐の妃
(5)卑弥呼には夫と子があった
(6)卑弥呼の男弟は六代孝安天皇
(7)和邇氏の墓から出土した卑弥呼の鉄刀

第7章 卑弥呼の墓を追う
(1)孝安の宮と墓所
(2)孝安陵のとなりの尾根
(3)径百余歩の円墳
(4)150m円墳の概要
(5)卑弥呼の墓とする理由
(6)卑弥呼の墓写真
(7)これは本当の孝安陵か?
(8)孝安陵の候補

(9)前方後円墳の原型

第8章 王宮を守れ
(1)秋津島宮の場所
(2)帝王編年記の秋津島宮伝承地
(3)予言ははずれた
(4)とてつもない神社遺構

(5)秋津島宮は必ず存在する

第9章 古代史が書き換わる
(1)仮説は証明される
(2)邪馬台国所在地論争の終焉
(3)『日本書紀』の実年代
(4)終章にかえて
 私が和邇氏の系図に、宇那比媛という尾張氏の女性の名を見たのは2007年の11月頃であった。宇那比媛(宇那比姫)が押媛の母親という記述は、孝安は宇那比姫の義理の弟であり、孝安が卑弥呼の政治を補佐した「男弟」という結論に至るのに時間はかからなかった。

孝安が卑弥呼の「男弟」であるという仮説によって、本格的な卑弥呼の宮と墓の探索を始めることとなった。
孝安の宮は室秋津嶋宮(むろあきつしまのみや)とされる。室とは現在の奈良県御所市室(ごせしむろ)である。秋津嶋宮が卑弥呼の王宮であった可能性は高い。また『記紀』によれば孝安は玉手丘に葬られたとする。玉手丘は御所市の南東に位置する玉手山である。

『記紀』は天皇の宮の場所と葬られた墓所を記す。十二代景行あたりまでの、宮と墓所の距離は、二代綏靖と七代孝霊が比較的離れるが、それ以外はおおよそ数Kmを超えない範囲にある。したがって卑弥呼の墓所も、秋津嶋宮から、さほど離れない場所にあると考えた。

 『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓を径百余歩とする。径百余歩といえばおおよそ150mくらいである。目に見える形で存在するという確信の下に、御所市室あたりへ、卑弥呼の宮と墓を探す旅に出た。2008年3月初旬のことである。

 御所市室の南、巨勢山丘陵は日本でも有数の群集墓地帯である。また近辺には室の大墓と呼ばれる全長238mの前方後円墳もある。最初私は、卑弥呼の墓を探してこのあたりを歩き回った。
しかし径百余歩で三世紀の中頃までさかのぼる墳丘を見つけることは出来なかった。その後航空写真でこの近辺を詳細に見ていた時、室の東、玉手山に墳丘らしき尾根を発見したのである。


第7章
(2)孝安陵のとなりの尾根


第1部 この人が卑弥呼