この人が卑弥呼
系譜で読み解く日本古代史 

邪馬台国出現
第7章  卑弥呼の墓を追う

(7) これは本当の孝安陵か?
第2部 卑弥呼の墓を追う
実在する径百余歩の円墳

第6章 驚愕の和邇氏系図
(1)幻の和邇氏系図
(2)和邇氏系図は偽作ではない
(3)他の系譜と整合性を持つ
(4)『記紀』より信じられる彦坐の妃
(5)卑弥呼には夫と子があった
(6)卑弥呼の男弟は六代孝安天皇
(7)和邇氏の墓から出土した卑弥呼の鉄刀

第7章 卑弥呼の墓を追う
(1)孝安の宮と墓所
(2)孝安陵のとなりの尾根
(3)径百余歩の円墳
(4)150m円墳の概要
(5)卑弥呼の墓とする理由
(6)卑弥呼の墓写真
(7)これは本当の孝安陵か?
(8)孝安陵の候補

(9)前方後円墳の原型

第8章 王宮を守れ
(1)秋津島宮の場所
(2)帝王編年記の秋津島宮伝承地
(3)予言ははずれた
(4)とてつもない神社遺構

(5)秋津島宮は必ず存在する

第9章 古代史が書き換わる
(1)仮説は証明される
(2)邪馬台国所在地論争の終焉
(3)『日本書紀』の実年代
(4)終章にかえて
 現在宮内庁が孝安陵として管理するのは、玉手山の一番北の尾根である。そこに円墳があるとされる。立ち入る事は出来ないので詳しい事は解らない。

 幕末の1862から1866年にかけて、江戸幕府により、天皇陵の大幅な改修が行われた。「文久の修陵」と云われる事業である。
この修陵 にあたって、『御陵画帳』という改修前と改修後の絵図面が残されている。
この絵図を見ると陵によっては大幅なつくり変えが行われている。
修陵前の絵図面と、この修陵に携わった谷森善臣(たにもりよしおみ) の記録から元の状況を見てみよう。


 絵図面Aが改修前の状況である。玉手山の山塊から北に張り出した尾根の先端に小 さな盛り土の墳丘が認められる。
谷森善臣によると「玉手丘陵、孝安 天皇の御陵なり、大和国葛上郡玉手村のうち玉手山の北隅にあり、字を宮山とよぶ、南傍に天満宮の祠あり、この御陵の高さ壱丈許めくり拾三丈ありて松樹生え たり」とする。
壱丈許めくり拾三丈とするから、高さ約3m周囲40mくらい、すなわち直径12〜13mの円墳であろう。
修陵前の絵図に描かれた円墳の周りに柵が巡らされている。当時から重要な古墳として扱われていたようである。
も ともとこの尾根は、玉手山の山塊と続いているようである。修陵の際、山側との間を掘り、尾根を切断して、墳丘のある尾根を大きな御陵に仕立てている。また 墳丘の下部に石積みを行って、墳丘を改修している。
改修前の墳丘は直径12〜13mで決して大きくはない。
手前にあるのは天満宮である。修陵の際この祠は取り払われたようである。現在天満宮の祭神、菅原道真は、150mほど南にある金比羅神社に合祀された。
明治になり天皇制の強化拡大と共に、更なる荘重化が進み今日に至っている。


A修陵前(出典:文久山陵図 出版:新人物往来社)

B修陵後(出典:文久山陵図 出版:新人物往来社)

 平安時代の法典のような書物である『延喜式』という書物に天皇陵についての記載がある。
孝安陵の大きさを東西六町、南北六町とする。おおよそ東西650m、南北650mくらいである。古い時代の天皇陵の墓域としては最も広い面積を持つ。
玉手山全体の大きさは、東西600m、南北も600mくらいで、『延喜式』に記載される孝安陵の墓域は、ほぼこの玉手山全域である。
明治の一時期、玉手山全域を墓域とされたが、地元の要請により、現在は一番北の尾根のみが、宮内庁の管理する孝安陵となる。墓域は尾根全体で東西 250m、南北100mくらいである。

 『記紀』は孝安を玉手丘の上に葬ったとするのみである。
『記紀』伝承を根拠とするなら、孝安陵は玉手山のどこにあっても不思議はない。したがって現在宮内庁が孝安陵とする場所が真の孝安陵かは疑問である。
私はむしろ孝安陵は玉手山の中心近くに存在するのではないかと考える。その候補の一つが私がNo2とする尾根である。

第7章
(8)孝安陵の候補


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