この人が卑弥呼
系譜で読み解く日本古代史 

邪馬台国出現
第3部 王宮を守れ  

(2)帝王編年記の秋津島宮伝承地
第2部 卑弥呼の墓を追う
実在する径百余歩の円墳

第6章 驚愕の和邇氏系図
(1)幻の和邇氏系図
(2)和邇氏系図は偽作ではない
(3)他の系譜と整合性を持つ
(4)『記紀』より信じられる彦坐の妃
(5)卑弥呼には夫と子があった
(6)卑弥呼の男弟は六代孝安天皇
(7)和邇氏の墓から出土した卑弥呼の鉄刀

第7章 卑弥呼の墓を追う
(1)孝安の宮と墓所
(2)孝安陵のとなりの尾根
(3)径百余歩の円墳
(4)150m円墳の概要
(5)卑弥呼の墓とする理由
(6)卑弥呼の墓写真
(7)これは本当の孝安陵か?
(8)孝安陵の候補

(9)前方後円墳の原型

第8章 王宮を守れ
(1)秋津島宮の場所
(2)帝王編年記の秋津島宮伝承
(3)予言ははずれた
(4)とてつもない神社遺構

(5)秋津島宮は必ず存在する

第9章 古代史が書き換わる
(1)仮説は証明される
(2)邪馬台国所在地論争の終焉
(3)『日本書紀』の実年代
(4)終章にかえて
 現在秋津島宮跡の碑が建つ場所がある。
御所市の南郊外にある宮山古墳の後円部、八幡神社境内である。私は最初秋津島宮を探して、この八幡神社を尋ねた。
しかしここは秋津島宮跡ではないと直感した。

『帝王編年記』という14世紀に成立した書物がある。それによると孝安の秋津島宮を、『掖上池南西田中なり』とする。
八幡神社の境内は田んぼに隣接するが、田の中ではない。なにより宮山古墳は、古くから室の大墓としてよく知られた、全長238mの前方後円墳である。
もしこの場所を指し示すなら、宮山古墳を目印にして、その場所を記すであろう。『帝王編年記』の記す、秋津島宮跡という伝承地は、ここではなかろう。
掖上池が何処か確かなことは判らない。だが『帝王編年記』が書かれた14世紀後半には、孝安の秋津島宮伝承地と、掖上池は存在していたのである。

和州旧跡幽考という江戸時代の書物がある。それによると、秋津島宮の伝承地を『寺村より乾(いぬい)にして川の東』とする。寺村とは現在の御所市稲宿(いなど)である。
孝安の秋津島宮はこの寺村の乾(いぬい)、すなわち北西に在ったとする。また川とは葛木川のことであろう。

この事から、私は秋津島宮の場所を、御所市立秋津小学校の東200mくらいの地点と推測した。理由はこの場所の北側を水路が走る。この水路が濠の役割を果している、と考えたからである。


【後に橿原考古学研究所によって、発掘調査が行われた。赤丸で示したあたりから特異な建物群が出土するのである。なお黄色で囲んだあたりが室と称される場所。
だが橿原考古学研究所はこの特異な建物群の年代を古墳時代前期ととする。古墳時代前期であれば、三世紀中ごろより古くなることは無い。卑弥呼の王宮であれば二世紀末から三世紀前半のはずである。したがってこの時点ではわたしの予想は大きく外れたと思った。
しかし後に私は、発掘報告書を詳細に検討するに及び、この遺構の年代が二世紀末から三世紀前半の遺構であることを確信するに至るのである。(2015年11月追記)】

後に


第8章 (3)予言ははずれた

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