この人が卑弥呼
系譜で読み解く日本古代史 

邪馬台国出現
第8章  日本古代史が書き換わる

(4)終章にかえて
第2部 卑弥呼の墓を追う
実在する径百余歩の円墳

第6章 驚愕の和邇氏系図
(1)幻の和邇氏系図
(2)和邇氏系図は偽作ではない
(3)他の系譜と整合性を持つ
(4)『記紀』より信じられる彦坐の妃
(5)卑弥呼には夫と子があった
(6)卑弥呼の男弟は六代孝安天皇
(7)和邇氏の墓から出土した卑弥呼の鉄刀

第7章 卑弥呼の墓を追う
(1)孝安の宮と墓所
(2)孝安陵のとなりの尾根
(3)径百余歩の円墳
(4)150m円墳の概要
(5)卑弥呼の墓とする理由
(6)卑弥呼の墓写真
(7)これは本当の孝安陵か?
(8)孝安陵の候補

(9)前方後円墳の原型

第8章 王宮を守れ
(1)秋津島宮の場所
(2)帝王編年記の秋津島宮伝承地
(3)予言ははずれた
(4)とてつもない神社遺構

(5)秋津島宮は必ず存在する

第9章 古代史が書き換わる
(1)仮説は証明される
(2)邪馬台国所在地論争の終焉
(3)『日本書紀』の実年代
(4)終章にかえて
 今日の文献史学は古代史研究にはまったく無力である。
なぜなら『日本書紀』や『古事記』の古い時代の記述は、虚構であって歴史資料として扱えないとする。また『先代旧事本紀』は偽書であるとして歴史解明の資料にならないとする。

一方、朝鮮の史書『三国史記』は、4世紀以前の信頼性は乏しいとして、日本史の研究にはあまり利用されない。更に中国史書の、後漢書『倭伝』も『魏志倭人伝』からの派生であるとして、その資料的価値を評価しない。

貴重な歴史書の価値をことごとく否定するから、文献史学は飛鳥時代以前についてほとんど何も語れない。
中国史書に記されるわずかな断片的資料から、前後のつながりのない歴史が語られるだけである。
いきおい古代史は考古学の独断場と成っている。しかし考古学だけで語れる歴史は歴史のほんの一部でしかない。
発掘によって、たとえ目の前に三世紀前半の大型建物遺構が出現したとしても、ここが卑弥呼の王宮などということは、魏から贈られた金印でも出土しない限りまったく判らないのである。

戦前の極端な皇国史観の反動から、戦後『記紀』伝承を否定することが正しい歴史研究であるというような風潮が一般化した。もちろん『記紀』伝承がそのまま歴史を正確に伝えているわけではない。
いかなる歴史書も多かれ少なかれ、作者や時代の価値観を色濃くまとい、誤認や意図的な作為さえ含む。歴史書とはそのようなものである。そのような不確かな歴史書でも、部分的に史実の一端を伝えている。そこから読み取れる情報は少なくない。

私は『記紀』伝承と古代氏族系譜から、宇那比姫が卑弥呼であり、孝安が卑弥呼の男弟であることを突き止めた。その結果玉手山に卑弥呼の墓を発見し、卑弥呼の王宮は孝安の秋津島宮とした。
孝安が卑弥呼の男弟であり、卑弥呼の王宮が秋津島宮であるといことは、文字資料でなければ絶対に解らないことである。
古代史解明に文献の重要性を主張するのである。

『この人が卑弥呼』という文章を書くにあたり、推論の根拠を多くの古代氏族系譜に求めた。
これまでに系譜についての研究は少なくないが、歴史資料としての利用は多くはない。
私は複数の系譜同士の関連を追うことによって、歴史解明の一つの手法を得たと考えている。
この手法を用いて、今日流布している日本古代史を少し書き換え、なぞ解きの面白さを伝えたいと思っている。


20010年12月16日追記
当初私が秋津嶋宮と推測した場所から、とてつもない遺構が出土している。
詳しい事はまだ解っていないが四世紀初めの遺構とされる。秋津嶋宮と年代は百年くらい離れる。
したがっ秋津嶋宮そのものではないが、無関係ではあり得ないと考える。

2011年3月22日追記
秋津遺跡と名づけられた場所の発掘調査が続けられている。
広範囲に渡って遺構が出土している。
邪馬台国の王都の一角が出土していると考えている。
邪馬台国出現

第1部 この人が卑弥呼